豊後のキリシタン大名・大友宗麟公のジョーティッシュ鑑定5

 

天正4年に宗麟公は、家督を嫡男・義統公に譲りましたが、実質的には宗麟公が実権を握っていました。天正5年、薩摩国の島津義久公が日向国に侵攻したため縁戚であった日向国・伊東義祐公は豊後に落ち延びました。このため宗麟公は日向回復をもくろみ家臣の方々の反対にも関わらず出兵を強行しました。

 

4室 魚座

Sa Mo

5室 牡羊座

 

6室 牡牛座

 

7室 双子座

 

3室 水瓶座

Su

 

大友宗麟公

霊性・宗教性の図

8室 蟹座

Ve

2室 山羊座

Me Ra Ke JuR

9室 獅子座

 

1室 射手座

Rag

12室 蠍座

 

11室 天秤座

Ma

10室 乙女座

 

 

出兵前の天正6年7月、Ke/金星/火星期にキリスト教の洗礼を受け、ドン・フランシスコと名乗りました。僧侶の象意があるKeは、宗教を意味する木星と同室します。8室の金星と12室を支配する火星がKeにアスペクト(影響)して宗教が変わることを表しています。

 

天正611月に大友軍・軍師角隈石宗公は「血塊の雲が頭上を覆っている時は戦うべきでない」と主張しますが聞き入れられず、耳川の戦いの結果、大友軍は大勢の兵士を失い、石宗公も戦死します。

 

天正12年に肥前国で龍造寺氏と島津氏の戦いが行われ龍造寺氏当主の隆信公が戦死します。この時、宗麟公は重臣・戸次鑑連公に筑後侵攻を行わせ、同国の大半を奪回しました。しかし、天正139月の金星/金星/月期に鑑連公が病死すると宗麟公は、軍事的支柱を失います。出生図の金星は、損失を表す12室にあり、目下を意味する6室にアスペクト(影響)します。6室は月が支配することから大事な重臣を失う時期となりました。

 

天正14年に宗麟公は、豊臣秀吉公に謁見し豊臣傘下になることと引き換えに、軍事的支援を依頼します。天正15年に豊臣氏による九州征伐が行われ戦局が逆転しました。皮肉にも大友家の滅亡を救ったのは豊臣軍の主力である毛利家だったのです。天正155月に病に倒れた宗麟公は、58年の激動の人生を終えました。

 

宗麟公の魂を表す月(AK)は宿曜経では室宿となります。「室」は自分の個性を表す室内を輝かせることを意味します。宗麟公は、独自性を持ち力強く現実を動かし、我が道を突き進むことで大きな成功を得ています。

 

当主となってからは軍事力と巧みな外交政策により、九州で六カ国を領するまでに急成長を遂げました。また西洋文化への理解がありポルトガルの医師アルメイダを通じた日本初の総合病院の建設や医学教育を行いました。これらは西洋の文化や技術が日本に根付く礎となったのです。

 

大友家は宗麟公の力により6ヶ国の太守となり、西洋と交流するなど大きく発展しましたが、衰退を招いたのも宗麟公の時代でした。大友家の盛衰は宗麟公の人生そのものだったのです。大分の発展に大きく貢献した宗麟公は現在でも数か所に銅像が設置されています。