原理講論、第二章 モーセとイエスを中心とする復帰摂理、(四)イエスの路程が見せてくれた教訓 に、
「第一に、ここにおいても、み旨に対する神の予定が、どのようなものであるかということを見せてくださった。神はいつでもそのみ旨を絶対的なものとして予定され、それを成就していくために、洗礼ヨハネがその使命を完遂し得なかったとき、メシヤとして来られたイエス御自身が、その使命を代理されてまでも、その目的を達成しようとされたのであったし、またユダヤ人たちの不信によって地上天国がたてられないようになったとき、イエスは再臨されてまでも、そのみ旨を絶対的に成就しようとなさるのである。」
「つぎに、選ばれたある個人、あるいは、ある民族を中心とするみ旨成就に対する神の予定は絶対的なものでなく、相対的なものであるということを見せてくださった。すなわち神は復帰摂理の目的を達成されるために、ある人物、または、ある民族を立てられたとしても、彼らが自己の責任分担を完遂することができないときには、必ず新しい使命者を立てられて、その使命を継承させたのであった。すなわち、イエスは彼の第一の弟子として洗礼ヨハネを選ばれたのであるが、彼がその責任を完遂し得なかったために、その代わりとしてペテロを選ばれた。また、イスカリオテのユダを十二弟子の一人として選んだのであるが、彼が責任を全うし得なかったとき、彼の代わりにマッテヤを選ばれたのである。(使徒一・26)。また、復帰摂理の目的を達成なさるためにユダヤ民族を選ばれたのであったが、彼らがその責任を全うすることができないようになったとき、その使命を、異邦人たちに移されたのであった(使徒一三・46、マタイ二一・33~43)。このようにいくらみ旨成就のために選ばれた存在であっても、彼を中心とするみ旨の成就は、決して絶対的なものとして予定なさることはできないのである。」
「つぎに神は、人間の責任分担に対しては干渉されず、その結果だけを見て主管されるということを見せてくださった。洗礼ヨハネやイスカリオテのユダが不信に陥ったとき、神はそれを知らなかったはずはなく、またそれを止め得ないはずもなかったのであるが、彼らの信仰に対しては一切干渉されず、その結果だけを見て主管されたのである。」
「つぎに、大きい使命を担った人物であればあるほど、彼に対する試練もまたそれに比例して大きいということをも見せてくださった。アダムが不信に陥り、神を捨てたために、後のアダムとして来られたイエスが、その復帰摂理の目的を成就されるためには、アダムの代わりに神から捨てられた立場をもって信仰を立て、その堕落前の立場を蕩減復帰しなければならなかったのである。それゆえにイエスは、荒野において、サタンの試練までも受けなければならなかったのであり、また、十字架上で神から見捨てられるということまで体験されなければならなかったのである。(マタイ二七・46)」
ある古参のシックの婦人と電話で話したとき、
その方は、とても「御父様」を愛しているために、
「御父様」の対する「愛着」から、「顕進様」に対する「見解」が、御父様の息子(真のご家庭の長子)という範疇から心情的に超えられないことを思わされました。
「誰も新しいぶどう酒を古い革袋には入れない。そんなことをすれば、革袋が破れてしまって酒が漏れるし、袋もだめになる。新しいぶどう酒は新しい革袋に入れよ。そうすれば、ぶどう酒も袋も両方が保たれるだろう」(マタイ伝第九章の一節)
とありますが、また、
イエス様が再臨される時のイエス様のみ言葉に、
「人の子もその日には同じようであるだろう。しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない」(ルカ福音書17章25節)
「あなたがたに言っておくが、神はすみやかにさばいてくださるであろう。しかし、人の子が来るとき、地上に信仰が見られるであろうか」(ルカ福音書一八章8節)
とあります。
クリスチャンは、「イエス様」を愛するがゆえに、篤実な信仰者ほど、「再臨主」を受け入れがたく、「御父様」を受け容れられませんでした。
それでは、私たちシックは、どうでしょうか。
「御父様」を愛するがゆえに、篤実な信仰者ほど、「第4アダム」を「真の父母」として受け容れることが出来るでしょうか。
「第4アダム」である「顕進様」が、「真の父母」という「新しい皮袋」に入ろうとされていても、「御父様」を愛する篤実な信仰者ほど、「御父様」を自分の心から失うのではないかという「喪失感」を持つのではないでしょうか。
「御父様」はすべてを勝利されてきたが、まだ、やり遂げていないことがあるため、「顕進様」が、その事をなしていくというようなことを言われていましたが、
「第一に、ここにおいても、み旨に対する神の予定が、どのようなものであるかということを見せてくださった。神はいつでもそのみ旨を絶対的なものとして予定され、それを成就していくために、洗礼ヨハネがその使命を完遂し得なかったとき、メシヤとして来られたイエス御自身が、その使命を代理されてまでも、その目的を達成しようとされたのであったし、またユダヤ人たちの不信によって地上天国がたてられないようになったとき、イエスは再臨されてまでも、そのみ旨を絶対的に成就しようとなさるのである。」
「つぎに、選ばれたある個人、あるいは、ある民族を中心とするみ旨成就に対する神の予定は絶対的なものでなく、相対的なものであるということを見せてくださった。すなわち神は復帰摂理の目的を達成されるために、ある人物、または、ある民族を立てられたとしても、彼らが自己の責任分担を完遂することができないときには、必ず新しい使命者を立てられて、その使命を継承させたのであった。すなわち、イエスは彼の第一の弟子として洗礼ヨハネを選ばれたのであるが、彼がその責任を完遂し得なかったために、その代わりとしてペテロを選ばれた。また、イスカリオテのユダを十二弟子の一人として選んだのであるが、彼が責任を全うし得なかったとき、彼の代わりにマッテヤを選ばれたのである。(使徒一・26)。また、復帰摂理の目的を達成なさるためにユダヤ民族を選ばれたのであったが、彼らがその責任を全うすることができないようになったとき、その使命を、異邦人たちに移されたのであった(使徒一三・46、マタイ二一・33~43)。このようにいくらみ旨成就のために選ばれた存在であっても、彼を中心とするみ旨の成就は、決して絶対的なものとして予定なさることはできないのである。」
上記のみ言葉は、「イエス様」にも「御父様」にも該当される御言葉であると思いませんか。
「つぎに神は、人間の責任分担に対しては干渉されず、その結果だけを見て主管されるということを見せてくださった。洗礼ヨハネやイスカリオテのユダが不信に陥ったとき、神はそれを知らなかったはずはなく、またそれを止め得ないはずもなかったのであるが、彼らの信仰に対しては一切干渉されず、その結果だけを見て主管されたのである。」
は、現在の「お母様」や、「仁進様」や、「国進様」や「亨進様」に対して言及している御言葉のように思えてしまいます。
「つぎに、大きい使命を担った人物であればあるほど、彼に対する試練もまたそれに比例して大きいということをも見せてくださった。アダムが不信に陥り、神を捨てたために、後のアダムとして来られたイエスが、その復帰摂理の目的を成就されるためには、アダムの代わりに神から捨てられた立場をもって信仰を立て、その堕落前の立場を蕩減復帰しなければならなかったのである。それゆえにイエスは、荒野において、サタンの試練までも受けなければならなかったのであり、また、十字架上で神から見捨てられるということまで体験されなければならなかったのである。(マタイ二七・46)」
は、「イエス様」、「御父様」そして、「顕進様」の歩まれた道に「該当」されるのではないでしょうか。
私たちは、「イエス様」が言われた、
「人の子もその日には同じようであるだろう。しかし、彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない」(ルカ福音書17章25節)
「あなたがたに言っておくが、神はすみやかにさばいてくださるであろう。しかし、人の子が来るとき、地上に信仰が見られるであろうか」(ルカ福音書一八章8節)
の御言葉が、「私たち」に問いかけている「顕進様」に対する「御言葉」であると「悟る」ことが出来るでしょうか。
新しい時代が到来しているにも関わらず、「御父様」への「愛着」と「喪失感」のために、親離れできない子供から、成長して、
「新しいぶどう酒は新しい革袋に入れよ。そうすれば、ぶどう酒も袋も両方が保たれるだろう」
という「イエス様」のみ言葉を、実現していかなければならないのではないでしょうか。
「文鮮明・真の御父様」はもう地上にいません。
これからは、「文顕進・真のお父様」、「郭全淑・真のお母様」の時代が到来したということを「神様」に尋ねてみてください。
私は、教会の信仰を持つ前に、「仏教(密教)」の信心をしていました。その時、キリスト教で言う「聖霊体験」を何度もしています。
そのような経緯で、私の心の中には、「観世音菩薩」が住んでいます。そして、「イエス様」もここでは言えない「苦労」をしているために、心情的つながりも結構あると思います。そして「御父様」も私の心の中に存在しています。
私が、今回の投稿で、言いたいことは、「御父様」との「心情的決別」ではなく、「神様」の御心を優先して、現在の「摂理的中心人物」を心に迎えることの重要性を伝えたいと思っています。
私の心の中に、「観世音菩薩」が住んでいますし、「イエス様」が住んでいますし、「御父様」住んでいますし、「顕進様御夫妻」が住んでいます。
そのことは、矛盾したことではなく、「超教派」、「超宗教」につながると思っています。
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