Welcome to my world

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佐々木めばえ

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強烈に“今生きていること”が恋しくなって、時間を止めたくなることがよくあるけれど、今夜もそう。こみあげてくる感動を止められないので、言葉にして放してあげようと思う。

でも、生きているのに、生きているのが恋しいなんて変だなあ。

 

新しさも鮮やかさも感動もそのままに、愛おしい思い出は再体験できるようになったらいいな。人間は忘れる生き物で、それは大切な能力でもあるけれど、やっぱり自分が生きた時間を忘れるのは悲しいよ。流れていく時間は止まらないね。切ないね。切ない。まだ“今”に留まっていたいのに。流れていく、波みたいに止まらずにずっと。そこから逃れられないのはわかってるよ、時間の波もうやめて、私の愛おしい時間を流していかないでお願い。

 

 

大好きな人達が一人一人どこか離れた次元へ行ってしまって、帰ってくるかわからなくなって、ひとりになる不思議な夢を見た。鮮やかで美しい世界がそこにはあって、でも大好きな人は誰もいない。

 

上の方から、静かな声で誰かが言った。

「生きていて、触って存在を確かめられることに感謝するんだよ。」

 

「生きていて、触って存在を確かめられるうちに、沢山愛するんだよ。」

 

 

私は毎日毎日、「存在するっていうことを経験している」んだね。

“存在”を経験して、愛を学んでるんだね。

 

愛を持って、愛を受けて、生きていることに感動している自分がいることに今、気が付いたよ。

1年前になぐり書きしたノートを見つけた。
『沢山失敗して沢山折れてもいい。私はめばえだから、いくら踏まれたり芽を摘み取られても何回だって芽生えてやるよ。待ってろ、世界。』

ここにいたんだねって、ずっと忘れていてごめんねって、涙が出た。

私が求めているのは心の解放。それは、WhereでもWhatでもなく、Whoなんだ。

湧き起こるものが本物だね。紡いできた物語は私を裏切らないね。

新しさと鮮やかさと感動と感謝と、愛の詰まった人生を私にプレゼントするよ。

約束するよ。

 

 

 

 

今こうして感じていることを、何不自由なく文字でつづることができる。

実際はパソコンが文字を反映させているけれど、まるで私から生まれているような感覚で、愛している人に、愛を伝えることができる。声を届けることができる。

なんとセクシーなことか。

表現って、とってもセクシーだ。

ロマンチックすぎる。言葉を生み出した人達、それを継いできた人たち、本当にありがとう。あなた方のおかげで今わたしはこうして愛している人に私の想いを伝えることができる。

本当にありがとう。あなたたちってすてきね。

 

イメージは言葉の範囲を超えている。

だから人に伝えるときに、言葉の枠にはめてしまうとそのエネルギーが半減してしまうことがある。

だから芸術があるのだろう。言葉にならないメッセージをもっと、もっと。

 

声は言葉以上にその声質で言葉じゃないメッセージを伝えられる気がするんだ。私は生きた言葉が好きだ。活字の良さは、声のもつ生のパワーを取っ払って、余計な情報なしに自分が得たい情報を得られるところにある。あとその活字を自分のヴォイスを通して読むことで、心に想起されるイメージを自分のものとして捉えることができる。人は自分から生まれたものを大切にしようとするから、その活字がもたらしたイメージは受け手の中でずっと大事にされることになる。

 

 

人間も含めた“目に見える存在する物“はすべて、時計であり、アートであり、メディアであり、メッセージであり、宇宙と事実の断片である。

そして、心だけが真実である。



本当の愛の前では、空間も時間も存在しない
それが友愛であれ親愛であれ恋愛であれ。
真実の愛は最後にあなたを見つけるはずだよ
あなたが答えを見つけるのではなくて、答えがあなたを見つけてくれるよ、あなたが本当にそれを欲していれば。
探しているうちは見つからないかもしれない、でも探すのをやめないことだ。
心の奥で思っていることがすべてだよ。
隠せやしないんだ、自分の心をだますことはできない
それ以下でもそれ以上でもないんだ
キャンプに参加したくなって調べたらやっぱりアメリカがキャンプは最先端みたいで、キャンプロイヤル以外のアメリカのキャンプに参加したくなった。
ADHDの子供専用のキャンプとかもたくさんあるらしい。
日本にはまだキャンプっていう概念があんまり根付いてないから、アメリカのキャンプの先人たちに学んで、日本でキャンプを運営している方々から学んで、特別支援のイメージを明るくしていくと同時に、もっと”違い”そのものを楽しめるようなアクティブな環境を作っていきたい。
テクノロジー、サイエンスと協力したい。
そして世界の特別支援系のキャンプの会合とかにも出たい。
プラス自分で本も出したい。
写真家としての活動もしたい。
日本でもっと影響力のある人になって、昔のわたしみたいな状況にいる人たちが少しでも生きやすくなれるようにしていきたい。



あんなに綺麗な星空は今までに見たことがない。

十勝で見た星空よりも、留萌のキャンプ場で見た空よりも、なんというか、私が宇宙の中心にいる感覚だった。

丸い何かに包まれていて、前も上と横も下も後ろも宇宙宇宙宇宙。

無限の宇宙にむかっていく、宇宙の中を進んでいく宇宙船に乗っているみたいだった。

いつも私がいるここの場所だって宇宙の一部なのに、こんな言い方はなんだか変だけど。

どんなに光っていようとどんなに美しかろうとわたしがそこに在るのだ、光っているのだと認知し認識しなければその星は私の世界に存在しないも同然なのだ。

もし自分が星だとして。
光れもっと光れ。
観測せざるを得ないくらいに。

真っ白な白紙の宇宙のページをめくっている。
そこには私が見た景色認識したもの観測したものたちが集まってきてページを彩っている。いずれページが集まってストーリーが巻き起こる。

そのストーリーを解釈をして物語の中を生きるんだ。私にしか見えないページが私の中にたまっていく。物語は現在の私と共にある。

人はみんな見たいものを見ている
そうだとしたら、
私のページには私が見たかったものが詰まっているのかな、私のみたい世界が今私が見ている世界なのかな




わたしはあなたに嘘をつきたくなくて、
あなたを疑いたくなくて、
いつも率直で素直でありたい。
計算をしたくなくて、
かっこつけたくなくて、
いつも肩の力を抜いた楽な状態でありたい。
属性で判断したくなくて、
持っているもので評価したくなくて、
いつもあなたの存在を見つめていたい。


愛しているから、信じているから。
愛したいから、信じたいから。わたしは。

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全ての出来事は

わたしに愛と感謝を学ばせてくれる。

必要な人に巡り会うようになってるんだなあ。

必要なことが起きるようになってるんだなあ。

美しいものを観測しよう。

見ようとしないと見えないものを観測しよう。

すべて形を変えた愛なんだきっと。

すべてはつまり愛と感謝だ。

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過去の自分と同じことを思うことがある。

このときも、その一瞬を愛していたんだなあ。


***


2016718日月曜日


いつもいつも、この瞬間に生きているはずなのに、気付けば違う瞬間にいる。

瞬間瞬間、その瞬間にいるはずなのに。すごい勢いで目の前を波のように通り過ぎていく。

乗ったと思えば流され、次の瞬間にはもう波は遠く後ろに見える。

ずっと続いてほしい瞬間も、同じようにゆるやかに流れ続けてはどこかに消え戻ってこない。愛おしくて仕方ない瞬間をずっと私の中に留めていたくて必死にしがみつく。記憶までもいつしか忍び足でかすかに風化していく。もう二度とこないであろうその瞬間を、刻み込むように反芻する。愛おしいあの瞬間が自分から遠ざかっていくようでさみしくて。不思議だ。私たちはこの瞬間にしか生きられない。みんなそう。過去を生きている人もいなければ未来を生きている人もいない。この世にはこの瞬間しかない。過去も未来も本当は存在しない。この瞬間が連続されているだけで、過去と未来は区分けされて名前がつけられたにすぎない。

時間も人もいっぱいいるようだけど、時間も人もひとつしかない。

その一瞬に生きていて、逃したらもう二度と同じ瞬間はやってこない。

同じ場所であっても、時間が存在する限り、そこは同じ場所ではない。

その一瞬、その人を逃したら、代わりはない。

直観を少しでも感じたなら、這ってでもつかみにいかないと、つかみそこねたその瞬間を引きずって生きていくことになる。その人を刻み込んで生きていくことになる。

 

私の小さな決断が、この人たちの人生を少し変えたように、誰かの小さな決断が、私の人生を大きく間接的に変えている。知らないところで相互作用しあっている。

私が好きだと思った人の人生に、プラスな影響をもって登場できる人でありたい。

 


つじつま合ってなくてもいい、足りてなくたっていい、矛盾だらけでもいいんだ
心から愛するものをつくるだけだ

社会に合わせる必要ない
既存の価値観に自分をはめていくことない
自分の人生を愛せていたらそれでいいんだ


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去年の夏にスタッフとしてボランティアをしていた、アメリカ・ノースカロライナ州にある自閉症の方専門のキャンプ、”キャンプロイヤル”。


私が世界でいちばん大好きな場所だから、私の人生を変えてくれた場所だから、もっともっといろんな人に知ってほしい。

私がそこで何を見たのか、感じてほしい。


〜キャンプロイヤル体験記〜

日記からそのまま抜粋


*****


201685日金曜日

 

Samとの一週間が終わった。というよりは気が付いたら時が私をここに運んでいた。そのときそのとき一瞬を生きているはずで、瞬間を飛びえ超えることはできないから、続きの上にいるはずなんだけど、たまに、その過程に自分でびっくりすることがある。

 

発語がないからといって、感情をもっていないとのは違う。渦巻くほどのとめどない感情を心の中に秘めているかもしれない。その子自身の表現方法を探って、小さな“言葉“のサインを拾い集めて、見落とさないようにしたい。疲れてきたときに、思い通りにならないことに対していらいらして、本当の目的を見失ってしまうことは、正直よくあることだとは思う。でもそこで、気が付いて反省してその場で修復していけるくらい、常に主観的に見ながらも客観的に見つめなおす習慣をもちたい。

表情が明るくならないからって、楽しみにしていないのとは違う。

笑っているからといって、幸せだとは限らない。

“通常“、結びつけて考えられていることを、疑うことがすごく大事。結びつけて考えることでわかりやすくなるけれど、それがすべてになってしまうと、それは同時に偏見と思いこみの扉を開けていることになる。

 

今まで私が少なからずもっていた“こうすべき”“こうでなくてはならない”“こうであって当然”みたいな感覚が華麗に崩れていくのを感じる。私はこの概念を一番自分に対して抱いていたけど、その頑固な自分への完璧主義をもキャンプは鮮やかに破壊してくれた。

 

社会がこうだから、とか、枠はここまでだから、とかじゃなく。だって事実としてそこにあるんだもん。その人が、そうであることが、事実として目の前にあるんだもん。判断して分類して、とかじゃなくて、まず受け止めることでしか人間関係は始まらない。言ってしまえば、その人たちをありのままに受け止める十分な環境がまだ社会の中にないから、その人たちにとってそれが“障害”になってしまうんだ。もし、車いすの人が自由に動き回れる交通環境が整っていたら、足で歩けないことは障害ではなくなる。障害は、社会の側にある。人的環境、物的環境に関係なく、環境の中にある。個人の中にあるのではない。社会、そして人の意識の中にある。

 

それをキャンパーは教えてくれた。

 

初めて会った人に対して、どこまで献身的になれるか、どこまで創造的になれるか、想像力を働かせて、どこまで人を思いやれるか。そしてその上でどこまで自分が楽しめるか。巨大なミッションを、毎週与えられる。