sprout-ノーブル・サヴェッジ


タイトルは年明けからチビチビ読み進めていた三島由紀夫「若きサムライのために」から。どうやら元はルソーの言葉だそう。今更感はありますが、期待通りに面白い1冊でした。写真は正月、実家にて。


精神講話冒頭の人生についての項に、多くの小説家の成り立ちは「感受性の脆さに潜む人生との不調和のギャップから、言葉の世界に遊ぼうとする」とある。小説家の人生は貧弱なものだとも。そこへ丁度聞こえてきた、石原慎太郎の芥川賞候補作に対する「自分の人生を反映したようなリアリティーが無い」とのボヤキ。


小説家とはいえ、いや小説家だからこそ現実はそんなものだろうと思ってはいたが、便利な世の中となった今では、その度合いは尚更なのかもしれない。受賞者の田中慎弥は、その最たる例か。


個人的には日本でのBLOGやSNSの普及も、似た要因と問題があると感じる。実社会では大人しく愛想笑いを携え主体性と本音を表に出さない日本人ですが、ネット上に散見する玉石混淆な自己顕示欲と確かな意見。


遠足の感想文に「楽しくなかった」と書けば、忽ち職員室に呼び出され問答無用で説教を受ける破目になる。そんな同質的で抑圧的な空気に支配された教育を受け続ければ、賢い人間ほど不毛な表現のリスクを回避する傾向が強まるのは必然。


自己形成過程の多感な時期に、自身の正直な感性を解放し、ぶつけ合い認め合う中で研鑽する機会が無いまま大人になれば、書店で付け焼刃のコミュニケーション本を買い漁るか、ネットを捌け口とするかしかない。


思い返せば学生時代の読書家は、大抵は口数が少なく他人と一線を引いた傾向にあった気がする。周囲と異なる知見を持ちながらも、表立ち波風立ててまで主張する事を好まない。それは「どうせ言っても解って貰えない」という現実からの自己防衛であり自己欺瞞でもあるのだろう。


三島の「言葉の世界に遊ぶ」というのは、現代風に言い換えれば「自分の世界に逃げる」と言えるかもしれない。そして小説を尽きる事の無い人生の不満と退屈に起因する想像力の産物とすれば、無から有を生み出す感性の言語化と、それらを増幅、凝縮する苦しみの昇華が文学なのだろうか


自分の場合は小説家でも小説家志望でもないのだから、言葉の取り扱いには十分に注意したい。ただ単に言語コミュニケーションに置いて、言葉の意味以上にその匂いを感じ取り、相手の感性を探り当て共感する事で誤解を無くし理解を深める。そして更なる言葉と個性を引き出して学びたいだけ。それだけなのです。