2016年12月29日。
数ヵ月かけて徐々に体調が悪化した夫は、咳込みと息切れが激しく歩くのも辛い状況になっていた。
近所のクリニックや地域の総合病院では診断がつかず、紹介状を持って、大学病院へ向かう事になった。
出勤していた私に、夫本人から電話がかかってきたのは13時過ぎだった。
ちょうど同僚達とのランチを終え、午後の仕事に向けて準備をしていた時だったと思う。
「検査の結果について説明をするのに、家族を呼んで欲しいと言われた」
悪い結果なのか、何があったのか聞いても分からないという。
とにかく、家族を呼ぶように指示されたとの事。
慌てて上司に状況を説明、事情が事情なのですぐに早退の許可を受け職場を出る。
当時働いていた品川から大学病院までは、乗り継ぎが必要で1時間以上かかる距離だった。
緊急事態なので値段を気にせず会社から病院までタクシーで乗り付ければもう少し早かったと思うのだが、
その時は思いつかず、昼間の電車揺られながら病院へ移動する。
少しでも早く現地につくため、最寄り駅からはタクシーを拾った。
とにかく話を聞かなければ、まだ何もわからない…。
今であれば、家族が居なければ診断結果が話せないという話ですぐに状況が推測できそうなものだが、
この時はまだ「癌」という可能性はまったく頭に浮かばなかった。
普段あまり乗ることがないタクシー内で必死に自分を落ち着ける。
病院は思ったよりも人が少なかった。
恐らく既に年末年始で外来は休診になっており、病棟の見舞客や、夫のような緊急受診だけだったのだと思う。
予め聞いていた呼吸器内科へ向かい看護師さんに名乗ると、すぐに診察室の1つで待機していた夫の元へ案内された。
夫は、紙のように白い顔で心細そうに車椅子に座っていた。
検査を行ったためか、手術着のような服で、腕に点滴とパルスオキシメーターがついていた。
体調が悪いとはいえ、朝は歩いて出かけた夫の弱った姿に愕然とする。
(呼吸を楽にするためだと思うが、この時、何の点滴を受けていたのか?残念ながら記録になし…。)
看護師さんは「奥さんが来てよかったですね、ちょっとお顔を見て表情が柔らかくなりましたね」と私と夫に声をかけてくれた。
私にはただただ夫の体調が悪いようにしか見えなかったが、少し安心する。
午前中に既に検査は終わっており、診断結果は私を待ってからという事になっていたようだった。
到着してあまり待たず、声をかけられて別の診察室へ移動する。
夫の車椅子は看護師さんが押してくれていたと思う、まるで重病人のようで現実感がない光景だった。
出迎えてくれたのは若い男の先生で、真っ白になった夫の肺がうつったレントゲンを見せながら説明してくれた。
胸の中に腫瘍があり、それが肺を圧迫している。
そのため呼吸が苦しくなり、このような状態になっている。
腫瘍は良性・悪性それぞれの可能性があるが、悪性腫瘍である可能性が高い。
けれど、その腫瘍の特定が現段階では難しい。
恐らくかなり進行が早かったと推測される。
詳細を調べるため今後検査を行っていく必要があり、現段階ではこれ以上の話は難しい。
取り急ぎすぐに入院となる必要がある。
何を言っていいか分からず、丁寧な説明で状況だけは理解できたので、頷くしかなかった。
レントゲンは深刻そうなものなのに先生の言葉は柔らかく表情は柔和で、
どこか奥歯にものが挟まったような違和感のある話し方だったが、
それをどう質問すれば解消できるのか分からなかった。
「こんな話をされても、急な事で驚きますよね?
とにかくとても苦しい状態だったと思います、ご主人は本当に頑張りましたね」
先生は説明の最後に、こんな言葉で労ってくれた。
その時は内心で『それは違う、ずっと夫は体調が悪かったのに、病院に行かなかった、行かせられなかったんだ』と思ったのを覚えている。
夫は黙って神妙に話を聞いているだけだった。
説明は数分間のみで、入院の準備があるという事で、私と夫は今度は診療科の待合室で待機する事になった。
車椅子の夫と、長椅子に座る私。周りには誰もおらず、静かだった。
鈍い私はこの時まだ状況を理解しきれていなかったが、とにかく夫を慰める必要があると思った。
「せっかくこれから年末なのに、入院なんでびっくりしちゃうよね。
早く原因が分かるといいよね。
悪性腫瘍…悪性の腫瘍って、どんなものなんだろうね」
そう、なんと私はこの時、悪性腫瘍がどういう物かを全く理解できていなかった…。。。
それぐらい、幸いにもそれまでは、癌に縁がなく生活をしてきていたのだった。
「悪性腫瘍って、癌っていう事じゃない?」
言葉少なく、夫が答えた。
夫の体内には悪性腫瘍がある、つまり、夫は癌である可能性が高いと診断を受けている。
この時やっと、やっっと、
夫の体の状態がどれだけ良くないのか、
医師や看護師さんの腫れ物に触るようなどこかはっきりしない態度がなぜなのか、
病院をたらいまわしにされたのがなぜなのか、鈍い私にもはっきり理解ができた。
漠然としていた不安や心配が、急にリアルな恐怖に変わった瞬間だった。
ずっと体調が悪かった夫は癌だったのだ。夫が癌になってしまった…。