私の命は、望まれていなかった。
母ははっきり「ついでに産んだ。」「無理して育てた」と私に言った。
望んでいない子が生まれ、しかも病気を発症する──両親が「こんなはずじゃなかった」と思ったであろうことは、想像に難くない。
望まれていない子の扱いは、驚くほど露骨だ。
学用品は買ってもらえず、あっても兄が使い古したボロボロのお下がり。自転車は壊れたまま。
美容室にも行かせてもらえない。兄たちが当たり前のように散髪に連れて行ってもらう姿が、ただただ羨ましかった。
2番目の兄から日常的に、家具の角や椅子の脚などありとあらゆるもので殴られ、兄が疲れて暴行をやめるまでじっと耐え続ける数十分。
両親は知っていたのに、「ただのケンカでしょ💢」と、なぜか私が叱られた。嫌だ、つらい、怖い──そんな気持ちを口に出せる環境ではなかった。
“いらない子が生まれてしまった”。
その事実を、誰よりも受け入れられなかったのは親自身だったのだと思う。
母は、障害のある人にすれ違いざま差別的な言葉を投げつけるような人だった。
そんな母にとって、自分の子が障害を持って生まれたことは、きっと受け入れがたい現実だったのだろう。
だから母は私を「他人」にしようとした。「絶縁とかできないのかな?」と言われたことさえある。
「出生前診断とか受ければよかったの?」
「私の育て方が悪かったのかな?」
そう言われたときは、驚いた。
育て方で予後が変わるような病気ではないし、出生前診断で分かる疾患は一部の染色体異常であり、どんな異常でもわかるような検査ではないこと、青年期以前に発症する脳神経疾患のだいたいの仕組みは、多くの人が知っていることだと思っていたから。
そもそも、三人の子どもを育てる余裕などなかったはずなのに、なぜわざわざ高齢出産をしてまで子どもを増やしたのだろう。
それでも、生まれてしまった私は、生きるしかなかった。
誰にも望まれなくても、私だけは私を見捨てられなかった。
海馬硬化を伴う内側側頭葉てんかん。
幼いころから症状はあったのに、医療ネグレクトで病院に連れて行ってもらえず放置され続けた。
中学二年のとき、皆の前で発作を起こし、尿失禁して、ようやく同級生のお母様の協力で受診に至った。
あのときの恥と絶望、そして人生で初めて出会った、同級生のお母様のような“優しい大人”の存在を、今でも鮮明に覚えている。
舞台で発作が起きたとき、母に言われたのは「みっともない💢」「なんでこんな子になっちゃったんだろう」。
謝ることしかできなかった。
側頭葉てんかんの手術を受け、退院した翌日、家族がまだ寝ている早朝に家を出て、真冬の学校の自習室で震えながら勉強の遅れを必死に取り戻そうとした。
成人してからは、頭に残った10mmほどの手術痕に植毛をした。理由は自己満足だが、傷跡をふと目にした人に気を遣わせたり、見た人の心が少しでも曇ったりしないようにという思いも強かった。
少しでも「普通」に近づきたかった。
私はずっと、今の自分と未来を信じて生きてきた。
努力を積み重ねていけば、いつかこの地獄のような苦しみから抜け出せると信じていた。
「挫けたら二度と立ち上がれない」と分かっていたから、
今以上の自分を目指すというより──ただ、挫けないように必死に踏ん張ってきた。
けれど、今はときどき思う。
──私の人生、私の命は一体なんだったのだろう。
望まれずに生まれ、それでも必死にもがいてきた私は、もう以前のように「なんとしてでも生きたい」と思えなくなっている。
通院するだけで体力が尽き、帰宅すると玄関で倒れ込んだまま眠ってしまう。
心も身体も、少しずつ……いや、急降下するように削り落ちていく。
私はいま、限界に近い。
それでも、生きることだけは、まだ続けている。
首藤はるか