以前、母は私にこう言った。
看護学校に行かせてやったんだから、資格を使って働きなさい!


その言葉は一見「正論」に聞こえるかもしれない。
しかし、看護の現場で燃え尽き、身体も心も壊れてしまう人がどれだけいるか、母は知らない。知ろうとしたことすらないのだろう。

いや、知っていてあえて言っているのかも知れない。


夜勤の帰り道に性被害に遭い、外に出ることすら怖くなってしまったという話も母にしたはずだ。
なぜか私が怒られ、お前が悪いと一蹴されてしまったが。


そもそも、学校で学んだことを活かして働けなど、あなたが言えることか?と思った。
母は祖父母から十分すぎるほどの教育の機会や経済的援助を受け、恵まれた環境で時間もお金も自由に使えるモラトリアムを享受していた。
東京で生まれ、幼少期からピアノなど様々な習い事をさせてもらい、小学校受験をして国立大附属小学校に通い、二つの私立大学に奨学金も借りずに親の金で通い(1つは体育大学)、学びを社会で生かすこともなく、子が3人いるのに夫婦で突然仕事を辞めて
家具屋を初め、案の定失敗して借金まみれになり、私たちを連れて夜逃げ。その期間の生活費も祖父母の財産から賄っていた。


一方で、私はどうだったか。15歳のとき、右側頭葉切除手術を受け、退院後も心身ともに不安定な状態だった。そんな私に母は、毎日のように「あと2年、あと2年」と繰り返した。その意味を尋ねたときに返ってきたのは、「18歳になれば一人暮らしができるんだから、さっさと出て行って」という言葉だった。


あの頃の私は、術後の不安定な体調に耐えながら、手術や入院の影響で遅れた学校の授業に必死でついていき、薬剤調整のために通院するだけで精一杯だった。普通なら「安心して療養できるように」と寄り添ってくれるはずの親から、待っていたのは退院を祝う言葉でも労わりの言葉でもなく、冷酷なカウントダウンだった。
壁が薄い家なので、私はいつも耳栓をして勉強していた。だが、耳栓が意味を成さないほど、母はいつも大きな物音を立てていた。給湯器のボタンを叩くように押したり、まるでわざと大きな音をたてているように感じるほどだった。母が大きな音を立てるたび、集中が途切れる焦燥感、恐怖で体がこわばった。だが、少し静かにしてくれる?なんて言えない。だったら今すぐ出ていけと言われてしまったら住む場所すらなくなってしまうからだ。「お前にはここに居場所がない」と突きつけられるたび、心臓を握り潰されるような圧迫感に襲われた。
経済的にも精神的にも行き場を失った私は、進学の自由を考える余裕などなかった。「資格さえ取れば家を追い出されてもなんとか生きていける」という幻想だけを支えに、体力的にも精神的にも過酷だと分かっていながら看護の道を選ぶしかなかった。選んだというより、後2年で家を出ていかなけれはいけないという追い詰められた末にそこしか残されていなかった。
母にとっての「学び」は、祖父母の庇護の下での贅沢な遊びでしかなかった。けれど私にとっての「学び」は、命綱と呼ぶにはあまりに脆く、自由も余白もない、苦しみに直結する鎖だった。
だからこそ、母の「資格を生かせ」という言葉は、過去から現在まで一貫して続く暴力だ。追い出すように突き放し、選択肢を奪い、なお「その苦しい道を歩き続けろ」と迫る。そこには理解も共感もなく、ただ冷たく突き刺さる残酷さだけが残るのだ。


母は祖父母が建てた東京都内の5LDKの一戸建てに叔父(母の弟)と2人で住み続けている。祖父母が購入した土地の収入も得ている。母の年代の女性の大学進学率はわずか4.9%。そんな時代でも私立大学を2つ(1つは体育大学。教員を目指していたわけでもないようなので、趣味で行ったんだろうか。)祖父母が学費を全て出して卒業している。母がその学びを社会で生かしたことは一度もない。
母は祖父母の資産や環境に頼り、健康体で、学びの機会もお金も十分に与えられる、守られた環境でずっと生きてきた。
自分は一度も学んだことを活かしていないのに、なぜ私にだけ「資格を生かせ」と言えるのか。
母自身は祖父母の援助で守られてきた人生だというのに、私には「自己責任」を押しつける。
それこそが矛盾であり、滑稽でさえある。
母が私に投げつけたその言葉は、結局「自分が歩んでこなかった苦労を、娘には強いる」という身勝手さの表れだった。
正論を装った暴力。それ以上でも、それ以下でもない。
首藤はるか