私の幼少期に親が撮った写真には、私の笑顔の写真は1枚もない。
私は幼い頃から、写真を撮られるのがとても嫌いだった。それは、自分のために撮られるものではなく、両親が私たち子どもを“素材”として使い、変わった写真を撮っては知人に配り、自分たちの承認欲求や自己満足を満たすためのコンテンツにしていたからだ。幼いながらも、それが「自分のためではない」とはっきり感じ取っていた。けれど、拒否すると怒られるので、黙って従うしかなかった。
特に印象に残っているのは、ある海外バンドのCDジャケットを模倣した撮影だった。裸足の人物が横断歩道を渡るあの構図を、父は「子どもを使って再現したい」と言い出した。その話を聞いた瞬間、血の気が引いて絶望に襲われた。「また始まった」。当然、反論など許される空気ではなかった。
撮影当日。父は歩き方やタイミングを細かく指示してきた。歩行者信号が青に変わるその瞬間、私は父の命令通り歩き始めた。さっさと終わらせたかった。でも、私にはその横断歩道が、何時間もかかるイバラの道のように感じられた。
私は羞恥心や恐怖を、涙をこらえることで処理するのが苦手だった。こんな非常識な親を持った情けなさ、周囲の人の視線、裸足で撮影させられている異様さ、周囲に迷惑をかけても平気で自己の欲求を満たすことを最優先する親....自分で何も拒否できない無力さ――どうしても涙があふれてきてしまった。そんな私に、父の怒鳴り声が飛ぶ。
「泣くな!笑えよ!ちゃんとやれ!」
泣けば最初からやり直し。何も間違っていないのに、私が「失敗」した扱いになる。
親が望む通りにふるまうこと。
無理に笑い、機嫌を取ること。私の幼少期は、そんな「親の欲求を満たすための演技」で埋め尽くされていた。
まだ小さな頃から、私は心の中で何度も思っていた。「こんな親のもとに生まれたくなかった」と。
首藤はるか