こないだ悩んでいた義実家。
今後は合間を見て掃除したり、自分達の荷物を少しずつ運んでいく予定。

義父母から受け継いだ義実家で、私たちは私たちの暮らしを紡ぐ。
そして私たちの暮らしを紡ぎつつも、引き継いだものをしっかり終えていく。
それが私たちの役割だと考えることがある。
家だけでなく、お仏壇やお墓の諸々も。

人には他人からは分からない事情や感情がある。
義母が義父のお家のお墓参りやお仏壇を快く思えず、義務感でみていたような印象があるが、それは何が起因しているものかは分からない。
主人の家族では義父のご先祖のお墓に参ったことがないそうだ。

義母の元実家には義母の父の遺骨が長くどこにも納められず自家製(?)のお仏壇のようなところに置かれていた事情は分からない。
しかし主人の家族は義母の元実家に行くたびに、全員がお仏壇に手を合わせていた。

そういう家庭で子供の頃から育った主人や義妹さん達は、それが「一般的」だと思っている。
私には違和感しかなかった。

我が家は、父方や母方のお墓参りには事ある毎に家族揃って行った。
私の姉たちは今なお熱心にお墓参りに行くけれど、どちらの祖父母も記憶にない私には、ただただ辺鄙なところにまで行って、手を合わす行為(ご先祖様に手を合わす)の意味があまりに分からず、どちらかというと億劫だ。
でも私が異端で、お参りに行くのが「一般的」だと思って育った。

主人はそれに違和感があるかどうかは知らないが、我が家は宗教的だと感じていそうな節が時たま言葉の端々にある。

家族であれ、伴侶であれ、死生観はそれぞれでそれを否定するつもりはない。
それぞれが思うようにすればいいと思う。

私自身、親父がいなくなって10年くらいは親父の死を本当の意味で受け入れられなかったし、お墓に行くことも出来なかった。
ただ1度、ようやく気持ちに区切りがついて親父のお墓参りをしてからは別段、お墓に行く気はしない。
そこに親父が居るわけでなし、心の中にいる親父にはどこで手を合わせても同じかなと思うから。
親父の墓があろうが、なかろうが私自身はどっちでも構わないけれど、ただ形あるものを放置するということはあまり好きではない。
親父の墓や先祖のお墓、オカンの先祖のお墓は幸いに姉たちや親戚が参ってくれているみたいだから、お任せしておく。

そうはいかないのが主人の先祖のお墓。
私たちがどうすべきかに委ねられているところがあるが正直持て余してしまう。

私たちには子供が居ない。末代だ。
(本家筋ではないし、本家はどういう家族構成なのかも知らないけれど主人がよく「自分で末代だ」と言っている)
そしてお墓のシステム(?)も詳しく知らないが、主人が入れるものでもないと思う。
(もともと義父は本家の兄の代わりにお墓やお仏壇をみていただけのはず?義父もお墓に入っていない。
 義父が入れたのかもしれないが義母が入れなかったとしたら、それはそれで理由があるのだろう)
家と同時に受け継いだお墓や仏壇に至っては、私たちの一存と言われてもどうしたものかと悩むことが多かった。

ただ私の気持ちはハッキリしていて、どちらもみれないし、みたくないと思った。
それは今まで義母や主人が義父の家系(お墓・仏壇)に対しての考えや行動を見ていての結論だ。
2人が大切にしているものなら考える余地はあったのだけど、義母や主人も嫁や息子という立場や義務感で面倒をみていたという感じの(どちらかというと義父が亡くなった際に終いたいと思いつつ終えなかった)ものを引き継ぐつもりはない。

ただ感情的な要因以外にも、お墓やお仏壇というシステムや経済的な事情から成るものも含まれていたと思えるので・・・ある意味ここで自分たちに見合った形に変えて、そして終息に向けて整えていけたらなぁと思った。

お墓は墓じまいを・・・と考えないでもなかったが、義父の姉やその家族に異論があるらしく、ひとまず保留。

お仏壇は申し訳ないけど、片付けさせてもらった。
置き場所がないではないし、置いておいてもいいのかも知れないけど、私も主人もこまめにお世話はできない。
ナニもしないものを放置しておくのは嫌だし、何より私たちが年老いたときに義妹さん達に始末を頼むも筋違いだと思った。

ある人達は自分たちが死んだあとは、その周りの誰かがなんとかしてくれるから、それでいいと言うが、子供も居なければ、誰かになんとかしてもらうお金も残せない私は余り賛同できないので出来ることは自分でやっておきたい。

一方で、私は義父母には良くしてもらったし、いろんな想いもあるので義父母には手を合わせたいなぁと思っている。
だから義父母のお墓はなくとも、一心寺さんに納めさせてもらったので一心寺さんに手を合わせに行くつもりだ。
そして一心寺さんの近所(徒歩5分)に義父の先祖代々のお墓があるから、一緒に手を合わせに行こうとも思っている。
仰々しいお仏壇はなくしたけれど、手元供養的に小さなお仏壇に位牌をおさめて、自分たちの部屋に皆の写真と一緒に義父母や親父の写真を並べようと思っている。

それは本来の宗教的にNGなことなのかも知れないし、非常識なことなのかも知れない。
ただ私個人として、故人を想う気持ちや方法に正しいとか間違うているとかはなくて、自分の経済状況や自分の考えに合うたスタイルで手を合わせていけたらなと思う。

「全てを片付けたから」
「従来のしきたりに則ってないから」
といって先祖を敬わないわけでもなし、故人を想わないわけでもない。

何にも囚われず、素直な気持ちで心の底から故人や先祖に手を合わせられるように整えるだけ。
形としては、色々終(しま)っていく方向ではあるけれど「終う=終わり」ではなく目には見えない形で自分たちの中に受け継いでいく。
せめて、私たちがいなくなるまでは受け継いだものは続いていくはずだ。

そんな想いを共有して、主人と一緒に過ごしていきたい。