「うまくいかなくて当たり前。

だってまだ人生は途中だから。」

 

 

好きな言葉の一つだ。

 

至極当たり前のことを言っているのに

私にとってはわりと受け入れがたい内容で、笑

いやでもその通りだなあ、という感じで

一度投げ出しては2ステップほど踏んで受け入れている。

 

まだ一回では抱きしめられない。

やはり私は「失敗」が自分の落ち度だと認めたくないんだろう。

 

 

 

失敗したくない。

 

これはけっこう私に根強い想いだ。

 

 

 

失敗はカッコ悪い。

失敗は許されない。

失敗はしてはならないこと。

 

失敗=人生から排除しなくてはならないこと。

 

 

小さいころからどんな失敗でもしたら百発百中で母に怒られていたため、

そのように刷り込まれているんだと思う。

 

失敗に対して

「そんなこともあるさ。」

という返しが存在することは大人になってから知った。

 

あまり失敗はしない子供だったけども、

いつも100点なのに90点なら「どうしたの?」と聞かれ、

就職がなかなか決まらなかったときも「どうして?」と聞かれ、(知るか)

そういえば大人になってから腹痛で救急車で運ばれ、

はるばる来てくれたときも第一声は「どうしたの?」だった。

 

心配を疑問文で表すタイプなのかもしれない。

でも私は責められているようにしか思えなかった。

 

とにかく何事もうまく運んでなくてはいけないし、

何か起こることはダメなことである、というふうに母は思うタイプのようだった。

 

人に迷惑をかけることを何よりも忌み嫌い、

それは長女である私にしっかり引き継がれた。

(他の二人の妹弟はそうでもないように思う)

 

 

そのような母のもとに育った結果、

今でも私は失敗に対してすごくアレルギーがある。

 

「失敗してはならない。」

これは最近気付いたのだけど、人の生きづらさを醸成する価値観としてかなり上位に来るものではなかろうか。

 

人は失敗しながら成長するのだと頭ではわかっているけど、体は拒否する。

 

常にうまくやらなくてはいけない緊張感の高さからすると、

私の人生は毎日何かの本番のようだ。

本当は練習かもしれないけど失敗できないので、毎日何かの本番があったかのような疲れ方をしているのだ。

 

もっと気楽に生きたいけど、なかなか変えられない生き方の癖だ。

 

 

 

そんな失敗アレルギーのわたしと対極にいるのが夫である。

 

彼は失敗しても、そのときは落ち込んだりするけど、基本的にそういうものだと受け入れているように思う。

 

なんせ失敗の数が違う。

 

微妙な遅刻。

財布や大事な書類などをなくす。

ゴミ出しを二連続で忘れる。

図書館に返す本をなくす。

家の鍵をかけ忘れる。(不用心すぎる)

ポケットのティッシュを確認せず洗濯機をまわしてしまう。

ニセサイトで買い物をしてしまい、商品が届かない。

 

こういう私は年に1回もやらないだろう大き目のミスをけっこうな頻度でやっている。

 

毎回落ち込む。

けどもミスをなくすのは性質上無理なようで、もう落ち込むのも慣れたものらしい。

しばらく落ち込んだ後はさっさと切り替えて暮らしている。

私には到底無理だ。

 

最近あったのは、祝日に出かけた美術展が外れだったという失敗。

わりと大きな展覧会だったのだが、正直ひとつも刺さる作品がなかった。

夫が前々から楽しみにしていたのだが。

 

美術展はアートなだけに当たりはずれが大きい性質のものかもしれない。

でも私は勘が良いのか、めったに外さない。

広告やレビューをあらかた見ると、良いイベントかそうでないか大体わかるのだ。

 

しかし夫はそういう勘があまりないらしく、

夫が選んできたイベントは正直はずれが多い。

飛行機でわざわざ行った美術館がはずれだったときはさすがに勘弁してくれ、という気持ちになった。

「そういうこともあるさ。」と言えなかった。

 

私も行く前に広告やHPを見て意見すればよいのだが、

夫の「これはおもしろいぞ!」というわくわく顔に負けるのだ。

行ってもないのに何がわかるというのか?という強い押しに負けてしまう。

 

でも、そろそろ意見し始めようと思う。

今回で確信してしまったのだが、夫の「おもしろいぞ!」はあまりあてにならない。

美術館は二人で行くほうが私も楽しいのだけど、基本的には私が選ぶとしよう。

そうすればはずれは若干は減るはずだ。

 

話がずれたが、

たぶん夫のはずす率の高さというのは、行く前にあんまり吟味してないことから生まれている。

それは失敗してもいいと思っているからだ。

この前提の違いは大きい。

なぜ行く前にもっと検討しないのだろう、と理解できない部分だったのだけど、夫はどうやら失敗を排除すべき事象と捉えていないのである。

 

そしてそういう人は存外に多い。

それを知っているだけで許せる人が増えるように思う。

そして、私も人生の後半は少しそっちよりになってみたいと思っているのだ。

 

たぶんそのほうが人生の彩が増えそうなので。

失敗も寝かせておいたら何かしらのおいしいものに変わるかもしれないし。