新感線の蛮憂記を観てきた。
遅ればせながらの新感線デビュー。
初めて見るタイプの舞台に戸惑った。

慣れるのに一番時間がかかったのは
舞台上の幕に映される、俳優たちの映像。
舞台上で再現できないことを、
おそらくはつなぎの役割も兼ねて
役と同じ俳優が映像の中で演じている。
実写とアニメの中間の質感。
でも、明らかに虚構。

新感線の舞台装置、衣装はかなり凝っていた。
ただ、映像もかなり作り込まれていた上に
より非現実的な世界が展開されていたから
当然のことながら、舞台上での出来事と不和が生じる。
舞台上にも世界はある。ただし、物質的で現実的。
荒波も、宮廷も、映像だとすぐに再現できるけど
幕が上がればその連続性が、観客の想像力にまかされる。

最初から想像に任されているんじゃない。
繋がりをつくることが任されているのだ。

従って舞台上の出来事は
生身の身体と装置の物質性、映像
照明、音響による相乗効果で作り上げられた
ひとつの虚構の世界となる。
より一段上の「共有」が必要となる。

芝居自体は、エンターテイメント性の強いものだった。
おそらくは新感線独特の、観客との一体感。
アドリブ、アクション、豪華な舞台装置と場面転換。
ドラマチックな筋書き。演じ方は、わりと伝統的。
演出自体、ときどき陳腐で気障なものもあった。

だがエンターテイメントだ。
こちらを引き込もうとしている。

大型の商業演劇は華やかだ。
規模の所為だろう、「生」の部分はどうしても減退する。
声はマイク、身振りの効果音やBGMも録音の再生、
完璧なセットと音照、衣装、そして圧倒的な客席の中、
生の実感は、伝わり難い。

生じゃ伝わり難いのか?
生だと届かないのか?
我々は数々の芸術が織りなす錯覚しか観ていないのか?
目の前にあるのは何だ?

夢をみせる物質の集合体だ。
ただ、虚構に追随し
そこに現実を見出せないと自覚しながらも
敢えて没頭しているようなそんな状態ならば
その芝居は、ただ甘やかされているだけだ。

蛮憂記は、面白かった。
数々の媒介を通じても
観客に伝えようとするエネルギーと気迫が
すごかった。