女におくられた歌の文字の筆跡に至るまで美を見出したという源氏物語の著者、紫式部。
今日の昼間に読んだ、尾形光琳の燕子花についての文章と重なるものがある。
様式美は決して表面的な美ではないのだ。
曖昧で、幼稚で、独りよがりな観察者の妄想を許さない
決然とした平面の世界、閉じられた世界、跳ね返し拒絶する誇り高き世界。
徹底的に完成された美の世界。それが、日本には、少なくとも過去の日本にはあったという。
今の日本のことは、残念ながら私にも分からないし、
日常に美を見出すことはないことはないが、
上に挙げた例と並べて述べるようなことは今は出来ない。

美学。日本の美学。
この雑然とした机の上に埋もれたパソコンで打ち付ける日本の美学とは。
日本人の欠点は極端なものの考え方をすることだという。
微細に至るまで完全を望む性格であると考えるならば、
それは現在に至るまで脈々と続くものなのかもしれない。妥協しないこと。

美しい日本等、電車の吊り下げ広告を見ても自己満足的幻想としか思えなかった。
美しいという言葉すら、何かむかつかせるようなものに思えていた。
なのに、キーン氏の言葉を聞いていたら
あらゆるものを美しいと思っていた自分の十代を思い出した。
美しくなれずに鬱屈とした気持ちに埋没していた私の十代。
音楽に、詞に、その美に惹かれ、自分も真似てみようと躍起になり
少しでも近づいた気持ちでいた、私のあの十代。
そんな自分が恥ずかしくなって、現実の処理に方向転換した二十代。

そして、今その半ば。
思い出せて良かった。
また明日から現実がやってくる。
現実の準備は今日から、そのもっと前からやっている。
だけど、時々思い出してみるのも良いかもしれない。
事実ではなく、その当時の気分を。
みらいへみらいへと向いかけ、
つぎへつぎへと急かされるようになった今だから。

私には過去があり、過去には基があり、
基には様々な葛藤があった。
その葛藤は美への憧憬があってこそだった。

だから。