私の命は、望まれていなかった。


母ははっきり「ついでに産んだ」「無理して育てた」と私に言った。


望んでいない子が生まれ、しかも一生涯治らない病気を発症する──両親が「こんなはずじゃなかった」と思ったであろうことは、想像に難くない。


日常的に母が私に言っていた「なんでこんな子になっちゃったんだろう」という発言も、母の心情を思うと申し訳なさでいっぱいになる。


望まれていない子の扱いは、驚くほど露骨だ。


学用品は買って貰えず、あっても兄が使い古したボロボロのお下がり。自転車はパンクして壊れたまま。


美容室にも行かせてもらえない。兄たちが当たり前のように散髪に連れて行ってもらう姿が、ただただ羨ましかった。兄は毎日入浴時に洗髪をしていたが、私だけは髪を3日に1回しか洗わせてもらえなかった。適切な散髪さえ許さず、髪を毎日洗うという清潔保持行為さえ禁止されていたら、臭くなるのは当然だ。カットをすることを禁止されるのなら、せめて毎日洗髪をするという、最低限の衛生面を保つ行為を禁止しないでほしかった。

当然3日に1度の洗髪では不十分で、兄や父親に「はるの髪は臭い」といつも言われていた。当然だろう。


2番目の兄から日常的に、家具の角や椅子の脚などありとあらゆるもので殴られ、兄が疲れて暴行をやめるまでじっと耐え続ける数十分。、


両親は知っていたのに、「よくあるただのケンカ!💢」となぜか私が怒られた。嫌だ、つらい、怖い--そんな気持ちを出せる環境ではなかった。


いらない子が生まれてしまった


その事実を、誰よりも受け入れられなかったのは母自身だったのだと思う。


母は、障害のある人に対して、すれ違いざまに差別的な言葉を口にする人だった


街を歩いていて、見た目から障害があるとわかる方を見かけると、母は話しかけられたわけでもないのに「あ、キ◯ガイ!」と言い、あからさまに避ける動作をとった。そこに迷いはなく、ためらいもなかった。

そんな母にとって、自分の子どもが障害をもって生まれたという事実は、どのように処理されたのだろうか。

——ぶつける卑劣な差別用語やあからさまに避ける動作、嫌悪感を向ける相手が、外の誰かから、家庭内にいる私に変わっただけだった。


だから母は私を「他人」にしようとした。「絶縁とかできないのかな?」と言われたこともある。

出生前検査とか受ければ良かったの?!」(⚠️出生前検査は一部の染色体異数がわかる場合がある検査であり、てんかんを発症するかわかるような検査ではない。



それでも、生まれてしまった私は、生きるしかなかった。


海馬硬化を伴う内側側頭葉てんかん。


幼いころから症状はあったのに、医療ネグレクトで病院に連れて行ってもらえず放置され続けた。


中学二年のとき、皆の前で発作を起こし、ようやく同級生のお母様の協力で受診に至った。


あのときの恥と絶望、そして人生で初めて出会った、同級生のお母様のような“優しい大人”の存在を、今でも鮮明に覚えている。


舞台で発作が起きたとき、母に言われた「みっともない💢」「なんでこんな子になっちゃったんだろう」という言葉。


謝ることしかできなかった。


側頭葉てんかんの手術を受け、退院した翌日、家族がまだ寝ている早朝に家を出て、真冬の学校の自習室で震えながら勉強の遅れを必死に取り戻そうとした。


成人してからは、頭に残った10mmほどの手術痕に植毛をした。理由は自己満足だが、傷跡をふと目にした人に気を遣わせたり、見た人の心が少しでも曇ったりしないようにという思いも強かった。


少しでも「普通」に近づきたかった。


私はずっと、今の自分と未来を信じて生きてきた。


努力を積み重ねていけば、いつかこの地獄のような苦しみから抜け出せると信じていた。


「挫けたら二度と立ち上がれない」と分かっていたから、


今以上の自分を目指すというより──ただ、挫けないように必死に踏ん張ってきた。



けれど、今はときどき思う。


──私の人生、私の命は一体なんだったのだろう。



望まれずに生まれ、それでも必死にもがいてきた私は、もう以前のように「なんとしてでも生きたい」と思えなくなっている。


通院するだけで体力が尽き、帰宅すると玄関で倒れ込んだまま眠ってしまう。


心も身体も、少しずつ……いや、急降下するように削り落ちていく。


首藤はるか