高校3年生になった。

卒業後にどうするか決めなければならない時期だった。

だけど私はそれどころではなかった。手術後のうつ状態はまだ続いていて、焦燥感も酷い。

実家にも安心できる居場所はなかった。

高校を卒業したら一人暮らしを始めなければならない。体調や学力、さまざまなことを整える必要があった。だが時間がない。学費の安い国公立大学に入る学力は私にはなかった。もちろん私立大学に行くお金などない。当然予備校に通うお金もない。

家に帰れば、高校を卒業したら家から出ていけという母からの圧があり、私は「この家を出るには、どこかに進学するしかない」と思っていた。 

進学という選択は、ひとまず家を出て一人で生活するための手段だった。日本学生支援機構(JASSO)の奨学金の貸与を受け、一人暮らしをして学校に通うことにした。支援機構の奨学金は利率0.1%未満で、返済手段もさまざまな配慮があった。

また、JASSOには入学時特別増額貸与という制度があり、そこから一人暮らし始めにかかる費用を賄った。

そして私は、受験が比較的簡単なうえに学費が安い、看護専門学校(正看護師)に進学した。

 実家を出て自立して生きていくには、就職して働くのが一番と考えるのが合理的かもしれない。だけど当時の私には、心身ともに体調が良くなかった。高校卒業と同時に就職して生活費を稼ぎながら自立するというのは、どう考えても現実的ではなかった。

 そんなふうに、自分なりに限界のなかで必死に頑張っていた高3のある日、三者面談での出来事があった。

私は、高210月に脳の手術をして、その後のうつ状態や焦燥感の中で、がむしゃらに努力していた。でも集中力も続かず、思うように結果は出なかった。定期テストや模試の成績も前期と比べてかなり下がっていた。

担任の教員は、私の成績表を一目見て、「下の方(順位)で頑張ってますね」と嫌味を言った。

無力感、やるせなさを感じた。

確かに、成績が良くなかったのは事実だ。

ただ、あの言い方はあまりにも無神経だった。

母はただ黙って座っていた。

この出来事は、私に強い印象を残した。

「見えない障害」「見えない病気」「見えないハンディキャップ」は、たとえそこに確かに存在していても、ないこととして扱われる。そしてないものとして、他の人と同じ土俵で評価される。その重さを、まざまざと突きつけられた出来事だった。

 これから生きていく上でも、こういう場面は何度もあるのだろうと高3の私は想像した。それは、とても厳しい道のりになると思った。


首藤はるか