私はどうやってできたのか ① ② の続き~
思春期に入るとみんな反抗期に入る。
私も、反抗期だったと思う。
中学1年か2年の時は、不良っぽいものに憧れていた。
不良っぽい男の子と仲よくしていた。
といっても大したことはしていない。
どこかの教室に集まってしゃべったり、近くのパン屋さんでパンを買ってきて食べたりした。
クラスではソツなく過ごしていたが、何かしっくりこない感じ、浮いている感じが拭えなかった。
何となくの居心地の悪さを感じながらの3年間だったが、3年の時は学級委員をしたりもした。
そして、受験生となった。
高校受験は、京都の女子校に入れると言われていたので、そこに入るつもりだった。
ところが、受験日当日熱をだしてしまい、保健室で受けるはめになってしまった。
おかげで、当確のはずが落ちた。
それから1ヶ月、必死で勉強した。なんとかまぐれで、県立高校に合格できた。
高校は、進学校だった。
しかし、自由な校風で勉強をしたとはいえない。
とても楽しい思い出ばかりである。
1年の休み時間には、セブンブリッジばかりしていた。
トランプ版麻雀である。
比良山の山登りがあった時には、サボって友達の家に集まって、セブンブリッジをしていた。
3年の休み時間は、ソフトボールと大縄飛びだった。
授業中は、窓の外で繰り広げられる、ハトの三角関係をずっとみていた。
授業が自習になった時には、学校近くのお店へ行って、かき氷を食べた。
おばちゃんが、サービスしておくね!と言ってくれて、それでなくても大きなかき氷がものすごい氷の山だったのを憶えている。
部活は、新体操だった。
今でこそ、フェアリージャパンなどと言われ、メジャーになってきたが、当時はとてもマイナーな競技だった。
華麗にみえるが、フープ(輪)をうまく受けられず、腕が青あざだらけになった。
やはり踊ることは楽しかった。
小学校・中学校の時は先生というものが嫌いだった。
建前、世間でよしとされているもの、上からそういうものを押し付ける人というイメージが強かったように思う。
実際は、いい先生もたくさんいた。
しかし、先生には絶対になりたくないと思っていた。
高校は、とても個性的な先生が多かった。
ワンレンの髪型の理科の先生は、びわ湖の水を取るためか?授業前に琵琶湖に飛び込んで、いつもきちっと撫で付けられている髪の毛がバサバサになっていた。
地学の先生は、サングラスをするとヤクザのようだった。
修学旅行の時、その先生が朝起きるのが遅い部屋に入ると、みんな「ガサ入れが入った」と言っていた。
別の先生は、修学旅行で飲み過ぎて、生徒に介抱されていた。
小学校・中学校は、みんなと同じを強制される感じがしていたのが、高校では個性を認め合っていた。下敷きに天皇陛下の写真を入れている子にも、やさしかった。
受け入れてもらえると思うと、自分を出すことができた。
アヒル踊りをしたりもした。本当はひょうきんなところもあるのだ。
高校の時には、ユーミンが流行っていた。みんなユーミンが好きだった。
私もみんなと同じようにユーミンを聴いていたが、本当は中島みゆきの方が好きだった。
進学をする時、看護師になりたいと思った。
どうしてそう思ったのかわからないが、外国の恵まれない地域で働きたいと思った。
看護学校に行きたいと言ったら、母に大反対された。
あんたみたいなおっちょこちょいで、どんくさい(ドジ)な人が看護師になったら、命が関わる仕事なのに何かあったらどうするの・・・・ということだった。
これに反論することはできなかった。
その通りなのだ。
そして、反対を押し切るほど、強い思いではなかったのだと思う。
だが、何か手に職を持てる学科に行きたいと思った。
小さい頃、母が「働きに出たいけど、父がダメだという」と言っていたからだった。
よく言っていたのか、1回しか言っていなかったのかは憶えていない。
ただ、結婚生活はおもしろくないんだ、となぜか子供心に思ったのはよく憶えている。
食に興味があったことや、その頃、週に何回か晩御飯を作っていたので、管理栄養士の資格が取れる大学へ入った。
続く・・・
思春期に入るとみんな反抗期に入る。
私も、反抗期だったと思う。
中学1年か2年の時は、不良っぽいものに憧れていた。
不良っぽい男の子と仲よくしていた。
といっても大したことはしていない。
どこかの教室に集まってしゃべったり、近くのパン屋さんでパンを買ってきて食べたりした。
クラスではソツなく過ごしていたが、何かしっくりこない感じ、浮いている感じが拭えなかった。
何となくの居心地の悪さを感じながらの3年間だったが、3年の時は学級委員をしたりもした。
そして、受験生となった。
高校受験は、京都の女子校に入れると言われていたので、そこに入るつもりだった。
ところが、受験日当日熱をだしてしまい、保健室で受けるはめになってしまった。
おかげで、当確のはずが落ちた。
それから1ヶ月、必死で勉強した。なんとかまぐれで、県立高校に合格できた。
高校は、進学校だった。
しかし、自由な校風で勉強をしたとはいえない。
とても楽しい思い出ばかりである。
1年の休み時間には、セブンブリッジばかりしていた。
トランプ版麻雀である。
比良山の山登りがあった時には、サボって友達の家に集まって、セブンブリッジをしていた。
3年の休み時間は、ソフトボールと大縄飛びだった。
授業中は、窓の外で繰り広げられる、ハトの三角関係をずっとみていた。
授業が自習になった時には、学校近くのお店へ行って、かき氷を食べた。
おばちゃんが、サービスしておくね!と言ってくれて、それでなくても大きなかき氷がものすごい氷の山だったのを憶えている。
部活は、新体操だった。
今でこそ、フェアリージャパンなどと言われ、メジャーになってきたが、当時はとてもマイナーな競技だった。
華麗にみえるが、フープ(輪)をうまく受けられず、腕が青あざだらけになった。
やはり踊ることは楽しかった。
小学校・中学校の時は先生というものが嫌いだった。
建前、世間でよしとされているもの、上からそういうものを押し付ける人というイメージが強かったように思う。
実際は、いい先生もたくさんいた。
しかし、先生には絶対になりたくないと思っていた。
高校は、とても個性的な先生が多かった。
ワンレンの髪型の理科の先生は、びわ湖の水を取るためか?授業前に琵琶湖に飛び込んで、いつもきちっと撫で付けられている髪の毛がバサバサになっていた。
地学の先生は、サングラスをするとヤクザのようだった。
修学旅行の時、その先生が朝起きるのが遅い部屋に入ると、みんな「ガサ入れが入った」と言っていた。
別の先生は、修学旅行で飲み過ぎて、生徒に介抱されていた。
小学校・中学校は、みんなと同じを強制される感じがしていたのが、高校では個性を認め合っていた。下敷きに天皇陛下の写真を入れている子にも、やさしかった。
受け入れてもらえると思うと、自分を出すことができた。
アヒル踊りをしたりもした。本当はひょうきんなところもあるのだ。
高校の時には、ユーミンが流行っていた。みんなユーミンが好きだった。
私もみんなと同じようにユーミンを聴いていたが、本当は中島みゆきの方が好きだった。
進学をする時、看護師になりたいと思った。
どうしてそう思ったのかわからないが、外国の恵まれない地域で働きたいと思った。
看護学校に行きたいと言ったら、母に大反対された。
あんたみたいなおっちょこちょいで、どんくさい(ドジ)な人が看護師になったら、命が関わる仕事なのに何かあったらどうするの・・・・ということだった。
これに反論することはできなかった。
その通りなのだ。
そして、反対を押し切るほど、強い思いではなかったのだと思う。
だが、何か手に職を持てる学科に行きたいと思った。
小さい頃、母が「働きに出たいけど、父がダメだという」と言っていたからだった。
よく言っていたのか、1回しか言っていなかったのかは憶えていない。
ただ、結婚生活はおもしろくないんだ、となぜか子供心に思ったのはよく憶えている。
食に興味があったことや、その頃、週に何回か晩御飯を作っていたので、管理栄養士の資格が取れる大学へ入った。
続く・・・