at 地域防災施設 鶴見川流域センター
by 鶴見川舟復活プロジェクト
吉六狛犬を追っている自分にとって、気になるタイトルの学習会に参加しました。
どれだけの人が集まるんだろうと思ったら、会場は聴講者でぎっしり。
どうやら、今年の初めに 横浜市歴史博物館で写真展「鶴見川流域の狛犬百態」が開催されたのが呼び水となっているようです。
そちらのイベントには気が付かずじまいだったので、残念です。
講演は3部構造になっていました。
講演I 「獅子・狛犬の歴史と流域の狛犬たち」 (臼井義幸講師)
臼井氏が狛犬に興味を持ったきっかけは、なんと「仕事でライオンを飼うことになったため」だそうです。
仕事でライオンを飼う!?どういうことでしょうか?
びっくりしましたが、詳しく語られずに話は進みます。
ライオンと獅子とは違うと知り、調べるようになったそうです。
10年来調べているということで、かなり詳しい方。
この前までは京都の狛犬を調べてきたのだそう。
松尾大社の狛犬は金塗りで、下鴨神社にはそこだけという狛犬ストラップがあるそうなので、今度旅行した時にチェックしようと思います。
日本伝来時は仏師が作った木像のもの。
石像では宗像神社の狛犬が日本最古だそう。
建仁元年(1201)、藤原支房(ふじわらつかふさ)が宗像大社に奉納した狛犬。
どちらも獅子形で、宋でつくられたものとされているそうです。
江戸時代の寛政年間に狛犬の彫り方手本集が出たため、広く作られるようになったとのこと。その後、町民である石工の自由な発想で、多種多様化していきました。
1820年ごろから獅子と獅子が対となるものが増え、江戸唐獅子期と呼んでいます。
かつてはあった狛犬の角がなくなったのは、石で角を作るのが大変なために廃れていったのではないか、と氏は推測しています。
鶴見川流域には157体の狛犬があるそう。
篠原八幡神社では冬至の日に神殿の鏡に日光が当たるようになっているのだとか。
ストーンヘンジのようです。太陽の力が弱い時に氏神様を護る意味があるそうです。
狛犬と子獅子の角度が陰陽型になっているのは、五行説に基づいているとする話もありました。
岡崎石工が広めた現在の一般的な狛犬は、あまりにも多く、パターン化され過ぎているため、食傷気味になった狛犬ファンから「しょうわ」や「こまやん」と呼ばれていますが、氏は「パッカン狛犬」と呼んでいるそうです。
御影石を型にはめてパッカンとして作るからとか。また新しい呼び名を知りました。
一番名がとどろいているのは、飯島吉六ですが、その他の名工も紹介されました。
・鳥山村の足立光一
・内藤家(留五郎、慶雲):明治時代から流域の狛犬を一番多く作った
ブランドだが作品は玉石混交。慶雲の墓はない。(なぜか?)
・末吉橋の片野せん
・吉澤家(藤吉、耕石?)
名工はいい素材の石を使うもので、しっかりした崩れにくい小松石を吉六は選んでいますが、内藤慶雲は悪い石で作ったものもあるそうです。
鶴見川流域外に悪い石の作品が多く、それは自分のシマの外だからではないかとの推測。少し遠くでは、評判が悪くても自分の島に噂が届かず、商売に響かないからのようです。
そんなわけで江戸に納める時には手を抜いて作るため、この辺りの人はあまり評価されていないそうです。なんとも人間らしい話ですね。
御影石の御影とは神戸の地名なのだとか。
石は鶴見川を通って水路で運ばれました。
舟運(しゅううん)で栄えた宿根(しゅくね)。宿根とは船を作っていたところ。
流刑地だった佐渡も、さまざまな狛犬が見られるそうです。
会場外の階段には、鶴見川流域の狛犬の写真が展示されており、その中でも特に会いに行きたい一対を見つけました。
いつか会いに行くわ!
講演II 「飯島吉六と石河岸」 (吉川英男講師)
次は、石工の中でも飯島吉六を取り上げたレクチャー。
吉六は、江戸時代中期から鶴見で活躍し、3代目以降は名前を襲名し、明治まで11代、約160年続いた石工。
彼は、鶴見村の石工ですが、隣の港北区内にも彼が手がけた石造物は現段階で32点確認されているそう。
江戸時代、多摩川の六郷にまだ橋はなかったため、東海道が整備された慶長6年(1601)頃に架けられた初代の鶴見橋は、日本橋を出発した旅人が初めて渡る橋でした。
昔の絵には、川崎領と鶴見領を分けるしるしとして、橋の両岸に棒が立てられています。
彼は鶴見橋のそのそばに作業場を設け、石造物を鶴見川から船で運んだそうです。
鶴見川河岸は、別に石でできていたわけではなく、石を搬入し石造物を搬出していたために石河岸と呼ばれていたとのこと。
石造物を運ぶ船は修羅船と呼ばれ、大きさは長さ4寸23尺、横幅1丈2尺。
運搬するには十数名がかりとなり、今のお金にして何百万もかかったのだそう。
作品を注文するのと運搬費を考えると、石造物を奉納するには莫大な費用が掛かったことになります。
歴代の吉六のリストの中に、7代目が「天保13年家出」とあったのが目に留まりました。
6代目の長男なんですが。そこで8代目は6代目の次男が継いでいます。
石工として名前をなしていながら、11代でぷっつり途絶えてしまったのは時代のせいなのか、今はまったく石の仕事に関係していないのか、気になるところです。
III 「シンポジウム&交流会」
会場が「地域防災施設 鶴見川流域センター」ということもあり、鶴見川流域水マスタープランのDVD鑑賞後に、IとIIの講演者の体験談を交えての話となりました。
鶴見川は、かつては「暴れ川」と呼ばれてよく氾濫し、数多くの死者を出していました。
講演者は、洪水の時に鶴見から綱島を通るバスに乗っていたところ、獅子ヶ谷あたりで「ここから先は土地が低くなるため、バスは行けない」と言われて途中で降ろされ、腰まで水につかりながら帰ったことがあると教えてくれました。
その後、治水工事を重ね、遊水地を設置することで、洪水問題は劇的に緩和されたそう。
近年の問題は、地球温暖化によるゲリラ豪雨による川の大反乱だそうです。
この鶴見川流域センターのすぐそば、日産スタジアムの横には広々とした多目的遊水地があり、普段はスケボー広場などに開放されていますが、鶴見川流域で戦後2番目の雨量を記録した去年の大規模台風の時には、東京ドーム1.5倍の水量を貯めて、遊水池の役目を果たしたそうです。
鶴見川の遊水池について、これまできちんと意識したことはありませんでした。
そもそも遊水池がどんなものか、よくわかっておらず、渡良瀬遊水地を見るように、常に水がある貯水池と同じようなものかと思っていました。
センター前の交差点の名前にありますが(昔あって、今はもうない池なのかな)と思っていたのです。
非常時にはきちんと用途をなしている、有益なものだとわかりました。
石ゴロゴロの河原がどこにもない鶴見川。石造物はすべて別の場所から石を運んでくるのだと改めて教わりました。
狛犬は、個人的に好きでいろいろと調べていましたが、きちんとした勉強会に参加したのはこれが初めて。
系統だった情報を教えてもらったことで、新たな刺激を受けました。
by 鶴見川舟復活プロジェクト
吉六狛犬を追っている自分にとって、気になるタイトルの学習会に参加しました。
どれだけの人が集まるんだろうと思ったら、会場は聴講者でぎっしり。
どうやら、今年の初めに 横浜市歴史博物館で写真展「鶴見川流域の狛犬百態」が開催されたのが呼び水となっているようです。
そちらのイベントには気が付かずじまいだったので、残念です。
講演は3部構造になっていました。
講演I 「獅子・狛犬の歴史と流域の狛犬たち」 (臼井義幸講師)
臼井氏が狛犬に興味を持ったきっかけは、なんと「仕事でライオンを飼うことになったため」だそうです。
仕事でライオンを飼う!?どういうことでしょうか?
びっくりしましたが、詳しく語られずに話は進みます。
ライオンと獅子とは違うと知り、調べるようになったそうです。
10年来調べているということで、かなり詳しい方。
この前までは京都の狛犬を調べてきたのだそう。
松尾大社の狛犬は金塗りで、下鴨神社にはそこだけという狛犬ストラップがあるそうなので、今度旅行した時にチェックしようと思います。
日本伝来時は仏師が作った木像のもの。
石像では宗像神社の狛犬が日本最古だそう。
建仁元年(1201)、藤原支房(ふじわらつかふさ)が宗像大社に奉納した狛犬。
どちらも獅子形で、宋でつくられたものとされているそうです。
江戸時代の寛政年間に狛犬の彫り方手本集が出たため、広く作られるようになったとのこと。その後、町民である石工の自由な発想で、多種多様化していきました。
1820年ごろから獅子と獅子が対となるものが増え、江戸唐獅子期と呼んでいます。
かつてはあった狛犬の角がなくなったのは、石で角を作るのが大変なために廃れていったのではないか、と氏は推測しています。
鶴見川流域には157体の狛犬があるそう。
篠原八幡神社では冬至の日に神殿の鏡に日光が当たるようになっているのだとか。
ストーンヘンジのようです。太陽の力が弱い時に氏神様を護る意味があるそうです。
狛犬と子獅子の角度が陰陽型になっているのは、五行説に基づいているとする話もありました。
岡崎石工が広めた現在の一般的な狛犬は、あまりにも多く、パターン化され過ぎているため、食傷気味になった狛犬ファンから「しょうわ」や「こまやん」と呼ばれていますが、氏は「パッカン狛犬」と呼んでいるそうです。
御影石を型にはめてパッカンとして作るからとか。また新しい呼び名を知りました。
一番名がとどろいているのは、飯島吉六ですが、その他の名工も紹介されました。
・鳥山村の足立光一
・内藤家(留五郎、慶雲):明治時代から流域の狛犬を一番多く作った
ブランドだが作品は玉石混交。慶雲の墓はない。(なぜか?)
・末吉橋の片野せん
・吉澤家(藤吉、耕石?)
名工はいい素材の石を使うもので、しっかりした崩れにくい小松石を吉六は選んでいますが、内藤慶雲は悪い石で作ったものもあるそうです。
鶴見川流域外に悪い石の作品が多く、それは自分のシマの外だからではないかとの推測。少し遠くでは、評判が悪くても自分の島に噂が届かず、商売に響かないからのようです。
そんなわけで江戸に納める時には手を抜いて作るため、この辺りの人はあまり評価されていないそうです。なんとも人間らしい話ですね。
御影石の御影とは神戸の地名なのだとか。
石は鶴見川を通って水路で運ばれました。
舟運(しゅううん)で栄えた宿根(しゅくね)。宿根とは船を作っていたところ。
流刑地だった佐渡も、さまざまな狛犬が見られるそうです。
会場外の階段には、鶴見川流域の狛犬の写真が展示されており、その中でも特に会いに行きたい一対を見つけました。
いつか会いに行くわ!
講演II 「飯島吉六と石河岸」 (吉川英男講師)
次は、石工の中でも飯島吉六を取り上げたレクチャー。
吉六は、江戸時代中期から鶴見で活躍し、3代目以降は名前を襲名し、明治まで11代、約160年続いた石工。
彼は、鶴見村の石工ですが、隣の港北区内にも彼が手がけた石造物は現段階で32点確認されているそう。
江戸時代、多摩川の六郷にまだ橋はなかったため、東海道が整備された慶長6年(1601)頃に架けられた初代の鶴見橋は、日本橋を出発した旅人が初めて渡る橋でした。
昔の絵には、川崎領と鶴見領を分けるしるしとして、橋の両岸に棒が立てられています。
彼は鶴見橋のそのそばに作業場を設け、石造物を鶴見川から船で運んだそうです。
鶴見川河岸は、別に石でできていたわけではなく、石を搬入し石造物を搬出していたために石河岸と呼ばれていたとのこと。
石造物を運ぶ船は修羅船と呼ばれ、大きさは長さ4寸23尺、横幅1丈2尺。
運搬するには十数名がかりとなり、今のお金にして何百万もかかったのだそう。
作品を注文するのと運搬費を考えると、石造物を奉納するには莫大な費用が掛かったことになります。
歴代の吉六のリストの中に、7代目が「天保13年家出」とあったのが目に留まりました。
6代目の長男なんですが。そこで8代目は6代目の次男が継いでいます。
石工として名前をなしていながら、11代でぷっつり途絶えてしまったのは時代のせいなのか、今はまったく石の仕事に関係していないのか、気になるところです。
III 「シンポジウム&交流会」
会場が「地域防災施設 鶴見川流域センター」ということもあり、鶴見川流域水マスタープランのDVD鑑賞後に、IとIIの講演者の体験談を交えての話となりました。
鶴見川は、かつては「暴れ川」と呼ばれてよく氾濫し、数多くの死者を出していました。
講演者は、洪水の時に鶴見から綱島を通るバスに乗っていたところ、獅子ヶ谷あたりで「ここから先は土地が低くなるため、バスは行けない」と言われて途中で降ろされ、腰まで水につかりながら帰ったことがあると教えてくれました。
その後、治水工事を重ね、遊水地を設置することで、洪水問題は劇的に緩和されたそう。
近年の問題は、地球温暖化によるゲリラ豪雨による川の大反乱だそうです。
この鶴見川流域センターのすぐそば、日産スタジアムの横には広々とした多目的遊水地があり、普段はスケボー広場などに開放されていますが、鶴見川流域で戦後2番目の雨量を記録した去年の大規模台風の時には、東京ドーム1.5倍の水量を貯めて、遊水池の役目を果たしたそうです。
鶴見川の遊水池について、これまできちんと意識したことはありませんでした。
そもそも遊水池がどんなものか、よくわかっておらず、渡良瀬遊水地を見るように、常に水がある貯水池と同じようなものかと思っていました。
センター前の交差点の名前にありますが(昔あって、今はもうない池なのかな)と思っていたのです。
非常時にはきちんと用途をなしている、有益なものだとわかりました。
石ゴロゴロの河原がどこにもない鶴見川。石造物はすべて別の場所から石を運んでくるのだと改めて教わりました。
狛犬は、個人的に好きでいろいろと調べていましたが、きちんとした勉強会に参加したのはこれが初めて。
系統だった情報を教えてもらったことで、新たな刺激を受けました。