引き続きオテロの感想(というか、私視点でのそれぞれの登場人物の説明かな)です。

今日は主役のオテロ。

今回もあらすじを紹介したサイトのリンクを貼っておきます。

オテロとデズデモナは愛し合っていた。


1幕のラストの二人の歌は愛情溢れており、

「愛しすぎて苦しい」

「喜びのあまり失うことを思って恐怖におののく」

「幸せのこの瞬間に死が訪れればいい」

そんな言葉が決して陳腐ではないほどに彼らの愛は切実で必死だ。

そんな二人が何故、無理心中とも言える形で終わったのか。

彼らの愛はそんな些細な出来事でゆらぎ、信頼は失われるものだったのか。

それは、この二人の絶妙な組み合わせ故とも言えるのではないだろうか。

そのあたりをオテロの立場から考察していきたい。

彼はムーア人(黒人)ということで、幼い頃から偏見と差別を受け、苦労と悲しみのなかで成長したと思われる。

他人から偏見の言葉や態度、自らの境遇の中で
それでも彼は努力し、生き延び、這い上がった。


しかし彼は認められ、ヴェネツィア領キプロスの総督になりながらも、美しい妻デズデモナと愛し合い、結ばれながらも自己評価は低いままだった。


あるいは彼は自分に自信が持てず、自分を認めて愛する事ができずにいた。


自らを愛さないものはどうなるか。


常に人の評価を欲し、しかし良い評価は聞き流す癖がつく。

人から愛されたとしても信じられない。

自分が彼女から愛されるのは、彼女が優しいからであると思う。

自分が愛される価値があるとは信じきれないのだ。

ちょっとしたことで、相手の愛情が失われたのではないかと不安になり、疑い、恐れが怒りに変わる事も…あるだろう。

彼女の瞳はまっすぐ自分を見ているのに、それを信じられない。


良い事よりも、悪い事を容易く信じてしまう。

「そうだろう。そうだと思った。いい事が続くはずなんて無いのだ」

彼の思考の基本がここにある。

彼は努力を惜しまない。

そうしないと見捨てられると思っているからだ。

彼は孤独が恐ろしい。

孤独のつらさを味わいつくしているからだ。

立派でありたい、正しくありたい、愛されたい…

そんな心が素直に自分の寂しさや辛さを表現する事を拒否する。

押さえつけられた劣等感はどこに向かうのだろう。


自己破壊へ向かうのではないか。

そこにイアーゴの囁きがくる。


小さな疑いは、様々な仕組まれた罠に煽られて大きくなり、やがて破滅への激流を作り出す。


劣等感と不安が大きすぎて、愛する妻の懇願も
愛の言葉も、優しい心も届かなくなっている。


いいニュースは彼の劣等感の前に遮断され、悪いニュースは何倍もの大きさになって心にのしかかる。


重さに耐えられない彼は、自分を破壊はじめる。


苦しみと辛さは、やがて怒りに変わる。

信じてほしいと泣く妻に、どうして愛している心が届かないのかと嘆く妻に、死にたくないと恐れる妻に…手をかける事になる。

彼の心は、幼いときの悲しく寂しいときのままに
成長する事をやめてしまっている。


愛情を確かめたくて酷い事を言ったり、自分ひとりの事を気にかけてくれないといって怒り出す様は、幼子のようではないか。

きっかけはイアーゴだったかもしれない。


しかし、彼が破滅するのは必然だったのではないかとも思える。


彼はイアーゴに破滅させられたのではなく、自らの心に負けたのだから。

ヴェルディはこういう男を描くのがうまい。

リゴレット(次のカルガリーオペラのシーズンはリゴレットがあるので楽しみです)にしても然り。

彼も自己評価の低さと劣等感により自滅していく。

彼の場合は娘への愛が判断を誤らせる事になるが…。


心の弱さゆえに自滅していく様は、惨めではあるが、他人事ではない。

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