引き続きの思い出話。このシリーズはタイトルに◆がついています。
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2013年から2014年は原油価格の高騰とともにオイル&ガスのインダストリーが好景気に沸いていました。
タイミングの良さから無事に就職できましたが、これもタイミングよく2012年(インターンシップ/在学中)に永住権(permanent resident visa/PRビザ)の取得が叶ったおかげでもありました。
学生ビザは所詮は短期間のビザで制限も多いし、更新が100%通る保証はありません。
永遠に学生をし続けると言うわけにもいきません。
学生ビザでは自分が根のない「短期滞在者」である事からは逃れられず、心のどこかで自分の居場所がどこにもないような不安感がありました。1年先のよjな長期の予定を立てたり所有物を増やすことも(心理的に)できませんでした。
永住権の取得を考え出したのは大学に入って2年目、DGとの付き合いから1年が過ぎた頃の2010年の夏でした。
もちろん、DGとの付き合いがどうなるかもわからなかったので、ファミリークラスではなくてスキルドワーカーのカテゴリーで。
このカテゴリーは英語の能力、学歴、仕事の経験などが点数として加算され一定以上であることが条件になります。私が申請をした当時は最低でも67ポイント以上が申請のラインでしたが、今でも同じなのかはわかりません。
同じ仕事の経歴でも、プレゼンテーションの仕方によって評価が分かれる場合もあると言う事で、申請のプロであろうコンサルタントを雇うことにしました。
バンクーバーにオフィスがあるコンサルタントでしたので、やり取りはメールと電話。
日本の会社からの推薦状、カナダの会社からの推薦状、日本とカナダの学校からの卒業証明に成績証明…。資料を揃えるのは大変でしたが、コンサルタントの言うままに書類を集めて記入していくわけですので(書類は作成はしてくれません。コンサルタントにもよるのでしょうが、私が雇ったコンサルタントはアドバイスだけでした)、楽だった…のかな?
語学力の証明のために再びアイエルツ(IELTS)受けました。今回は移民申請のためなので、ジェネラルのモジュールです。
アカデミックのモジュールよりもかなり簡単で驚きました(簡単でも結果はそんなに良くないのが残念)。
スピーキングが6だったので、申請のためのポイントは思ったほど稼げませんでした。
コンサルタントには最初に半額(10万円くらいだったといます)を払い、PRビザが降りたら残金を払うという契約でした(合計で20万円くらい。移民局に支払う申請費用などは別途必要でした)。
通常2-3年かかるプロセスという事を聞いていましたが、実際に待つのは長かったです。
2012年の年明けになるとインターンシップ決まっていた上に、年末には大学終わるかもしれない(念のために最後の一科目は取らずにいました。最悪でもこれで2013年4月まで卒業が伸ばせたからです)ために焦りが出て来ました。
DGと付き合いも3年目になり、どうやら長続きしそうな様子。DGも私がカナダに滞在できるかが気になっていたのでしょう。
ファミリークラスでの申請を同時にする話が出たのは2012年の春が近い頃でした。
スキルドワーカーのカテゴリーと違って簡単なファミリークラスだったので、コンサルタントは通さずに自力で申請をする事にしました。
DGは「スポンサーになるよ」と意思表示をした事で責任を果たしたと思ったのか、
書類作成は手伝ってはくれませんでした(役所の書類って苦手なんだよ、だそうです)。この辺りが私の周りの結婚カップルとは違う感じ(私たちはバツイチ同士で再婚する気は無かったので、事実婚/コモンローの関係でした)。周りのカップルは彼の方が彼女にカナダにいてもらうために頑張った、というパターンが多かったので。
書類を揃えて発送したのは3月。後は待つのみ。
面白かったのは両方のカテゴリーで「審査に通りました」の連絡がほぼ同時にあった事でした。スキルドワーカーが4月中ばでファミリークラスが5月初め。
私の中のエゴは自分の力で移民をしたと言えるようにスキルドワーカーで最後までいきたい…でしたが、私の貧乏性の部分がファミリークラスを選択。ファミリークラスだとコンサルタントに残金を払わなくて済むわけなので…。
ボーダー越え(PRビザは国境でもらえるので、一旦カナダを出て再入国する必要があります)は連休だった5月20日。
奇しくも日本では金環日食(部分日食に特殊バージョンで、太陽が完全に隠れずに月と重なってリング状に見える)があった日でした。日本時間では21日の朝だったようですね。
(ちょうど国境越えのために車をアメリカとの国境に走らせているときに日本に住む妹が送ってくれた日食の写真)