軍事エッセイとも関連するが、それとは別枠で述べる。
 
 
 たとえなんらかのトラブルや、事故や事件があったとして。同じ人間同士だから……きっといつか解り会える、これは青臭い理想論だろうか。
 人により意見の相違は必ず起こり、万民が一つの理想の元一致するわけではない。
 これでは世界の真理はただ一つだとはいえないだろう。
 
 動物は草食と肉食、さらに雑食がいる。この自然の摂理の前には生存競争からの弱肉強食は不可避であり、肉食獣に生まれたからには動物を殺して食せねばならない。
 草食獣にとってはたまったものではないが、草食獣だって植物を食べているし。食い荒らし過ぎると自然を破壊させるから、肉食獣によって間引きされる必要がある。
 誤解されがちだが、植物だって生存競争をしている。光に水、空気に養分を求め縄張り争いするし。
 理科で習うはずだから、早い子供なら小学生で解る食物連鎖の概念だ。(御存じなければラブロックの『ガイア理論』参照をお勧め)
 いまさらなにを上げるまでもない。
 
 しかしこの動物にとっての宿命を、人間同士(だけ)なら違う、変えられるとする意見がいわゆる『人間性』なのだが。これは理想論だろうか。
 
 
 『盗人にも三分の理』との言葉がある。これは短絡的な人には理解できないだろうが、拙作にも書いたが生活のため盗みをするものは、私服を肥やすため汚職をするものよりは罪は軽い。
 歴史では農耕民族は一見罪がないように思え、実は縄張り争いで血の雨降っていたのは日本ですら前世紀まであった。しかもはるか過去は田への川への海への生贄が当たり前にあり、他の民族から蔑視すらされた。
 この視点では、一見犯罪でしかない略奪によって成り立つ蛮族も、生き物の本来の姿に応じただけの『正しい』生き方だ。
 はるか過去の名画、『風とライオン』は若いころには受け入れられなかったが。いまは条件付きでならば一部うなずける。
 と、過激なことを述べるが。
 
 
 自分に疑いを持たない人間が学者になれるはずはない。よい学生でもいられない。学問とはどこまで突き詰めても結果や結論などに行き着かないのだから。
 人からかじり聞いた知識で真理を信じ込むようでは度量の器が知れる。アンチテーゼは常にあるし。いくらでもディベートは効く。19世紀疑似(似非?)科学ではなおさら。
 メニューを食べるな、って言葉の意味を理解しないのだろうな。疑問をなんら感じない知識を得て、それのどこが学問だ。完成されているとでも思っているのか。
 盲信によって思考停止している。それではカルト宗教信者と変わらない。
 
 ……と、偉そうなことを吹くが。私も歳を感じる。考えが柔軟性を失ってきた。頭が固くなる、というやつだ。
(余談だが物理的には脳軟化とこの逆を指すな。若いころに比べて余計な雑念が生まれ、悩みは少ないのだが。機械暗記した知識を機械筆記しているだけの繰り返しをしている感は否めない)
 
 
 人間間の不幸な行き違い、食い違いの悪循環によってほころびを感じる昨今。事態を自由な権利のもとに覆せるのが情報化社会でありたい、と私は盲信している。
 理想は調和と相互理解のために。