某ブロガーさんの記事からヒントを得て久しぶりにエッセイします。
まずは日教組の矛盾した偏狭な左翼教育についてです。平等を旨とし競争を否定しているのに、結局は生徒に競争を煽る……このカリカチュアはありますし。努力したものが努力しなかったものと、いっしょに平等扱いされるのは不公平……これはもっともなのですが。
(これは右翼小説として叩かれるロバート・A・ハインライン『宇宙の戦士』にも取り上げられます。ちなみにガンダムのモデルとも言われます)
まあ決定的大多数の学校教師や職場上司は、建前上の平等なんて当たり前に踏みにじりますが、しかしほんとうのリベラル層のできるひとは、もっと広く深い見識からの「平等」の理想を掲げているのです。
それは人間を『相対的に』判断する、ということです。ここでいう相対的とは、他人との比較ではなく自分自身との比較です。テストや営業とかの成績の絶対的評価とは違います。たとえ能力で他人に劣るとしても自分の持つ、できるだけの力を尽くすこと……。
いくら平等って美辞麗句連ねたって、人間、ほんとうは個々の能力に、歴然たる差があります。できる人間とできない人間とでは、絶対的な壁があります。それゆえの格差です。
しかし、できない人だって、その人なりに精いっぱいの努力をしているはずなのです。それをできないのは怠けているだけ、遊んでいるだけ、頭が悪いだけと決めつけてよく人は見下しますが。
多くの社会的弱者は環境の悪さで思うように働けず、成績が良ければ妬まれる、悪ければ馬鹿にされる愚かしい社会の中で、どれだけあがいても悪循環となり、落ちこぼれていき人生に絶望する……そして堕落する。多くは死を選ぶ。
こうしてあぶれたものを見捨てるようでは、恐怖政治ですし、ディストピアです。
(これは(主人公より人気なライバル役の言動が)左翼小説ともされる、田中芳樹『銀河英雄伝説』に克明に描かれています)
いま日本は極端な格差社会で、貧困世帯の子供が飢えていると聞きますし。その比率、六人に一人……これでは諸外国叩いているのは傲慢でしょう。
働きたくても働けないひとは、大勢いるのですから。そして、働くとは必ずしも生産的な行動とは限りませんし。タコが自分の足をかじるようなもので、その典型は年末の役場の予算消化するためだけの、掘っては埋めの土木工事などに見て取れます。
だから、弱者にも生きる権利としての、平等と自由があるのです。それが人権ですし、平和への道です。国際理解にもつなげなくては。目下自国内で潰し合っている、いじめが日本のお国芸とされるのは恥だと感じます。
弱者の権利を認めなければあっというまに血統で身分差の出る、選民思想ファシズムの右翼世界へ転落です。二世三世議員や芸能人とかもてはやされ、あるいは批判もされていますが。これは歪んでいるでしょう。
私は共産主義を肯定するわけではありませんが、否定するつもりもないのです。日本は長らく社会主義的、共産主義的だと呼ばれていましたし。事実上いまの世界にどんな政治形態であれ、本来の意味での完璧に理想化された国家は存在しません。
あるとしたら、それはディストピアですよ。不満分子は粛清される恐怖政治。日本はまだ自由が保障されています。堂々と不満を言える世界に稀有な社会です。それがこの過酷な国際環境下で崩れたら、悲惨この上ないですね。
ここで明記したいのは、兵とは「つわもの」と読みますが。現実戦争へ行くのは軍に入るしかない社会的弱者たちであり、権力者は決して前線へはいかないことです。国際問題を叩くくらいなら、批判すべき敵は内にあります。
ついでにいうと自衛官とは、全国民、どんな卑劣漢や愚かな不満分子すらひっくるめて守る、というスタンスですね。これが壊されそうな気配が嘆かわしいのです。
しかし古典にして最高とされる『孫子の兵法』からいうと、これはむしろ理にかなっているのですが。孫子の兵法は原文がとても短いですし、経営戦略のテキストとして入手も容易なので一読の価値はあります。