僕は斎藤の話を聞きながらエッセイを綴っていた。

『……むかしはまったく解らなかったのに、ある日ある時ふとした事がきっかけで突然その魅力に気がついたということが、誰にでも一度ならずあると思う。

 その良さを感じ取れるようになるまでの経験を積んだというのが正確なところだが、言い換えれば年を重ねたということでもる。

 日本の伝統芸能、文化というものに触れた時、特にその傾向が多い。派手で解りやすくて目を惹きやすいのを好とする文化と比較すると、日本の文化芸能というのはどうしても地味に映ってしまう。

 ……多い、ばっかりというわけではない。そう感じることが多いという意味だから、あくまでも主観だ。料理に例えるなら、刺身のように素材の味を生かした料理よりも、香辛料で味付けされた料理の方が甘い辛いもはっきりしているので、味覚が発達していなくてもおいしさを感じやすい…というようなことかな。

 日本人は甘味、辛味、塩辛味、苦味の4種に加えて、旨味を感じる器官が外国人より発達しているとも聞く。これは日本食による体験から。感覚ではたとえば納豆とか。

 僕は獣、鳥、魚の肉を食べる。一部の虫も。虫の一、二匹食えないで人間が務まるか!

 命とは命を犠牲にして命を繋ぐ行為だ。植物だって生きている。生き物で無い食料といえば、いろんな動物のミルク、無性卵、蜂蜜くらいしかないし、そしてそれらを作るのだって『生きている』飼料が必要だ。

 だから動物の殺しを嫌うベジタリアンの動物愛護団体の活動は、気持は解らないではないが、受け入れられない。

 まあ彼らの博愛主義は、世界すべての慈善と救いと平等と永遠の命を謳いながら、平然と肉を食べ、莫大な寄進を要求する盲信カルト宗教よりは上かな。

 小説ならアーサー・C・クラーク『3001年宇宙の旅』を拝読し、二十世紀を代表するSF界の巨匠すら、動物の死肉を食べる習慣を止める、ベジタリアン世界を未来図としたが、それともこれは人間性への大いなるアンチテーゼかと葛藤したものだ。

 対するアイザック・アシモフのとある短編では、完全に地球が開発されまくって、地球の地底深くに凄まじい人口を抱え、動植物は全滅され海中のプランクトンの合成食料と人間の排せつ物だけで賄っている恐ろしい皮肉にもユートピア、自然の冒涜と生命の進化の未来に賭けては絶望のディストピアを描き、それを憂いるからこの巨匠は好きだ。……』

 ……これらをつらつらと書いて、外付けメモリチップに落とし保存した上、まだ草稿だがそれをコピー用紙にプリントした。

 紙媒体がいちばん信頼性高い。数十年経ても残るから。電子媒体は早くて一年から長くて五十年で寿命が来る。でも紙はコスト的に割高いし、パルプ資材に自然資源を消費するし、狭い日本の高額な都会の場所をいささか取るな。

 僕のアパートは、本棚ぎっしりと主に小説と雑学の活字本で溢れているが。家に漫画より活字の本の方が多いなんて聴くと、たいていの活字に馴染みの無い一般人は、見栄を張った嘘と思うのだから、読書好きもいささかマイノリティなのが現実だが……

 こうしてひと段落し、僕は斎藤とまたビールで乾杯した。いまどき発泡酒でないところが、いささか贅沢だな。斎藤の用意したつまみも美味だった。