変わらず冷凍庫に余っている鹿肉尽くしだが、斎藤は懇切丁寧に実にレパートリー豊富に夕食をこしらえてくれた。なにを任せても一流のハム、か。

 箸を付けると、その『家庭の味』に不覚にも涙が出た。しょせん僕なんかに野心なんて、心身には似合わないサイズの買い物というもの……それでも一粒の麦として。

 僕の内心を知ってか知らずか、斎藤は何故か引用した。

「人は誰しも、親しくない人に自分の本性を知られるのを嫌がります。故に自分の本質が表れてしまう『手書き文字』を人には見られたくないのです。というわけで、手紙はすたれて行ってしまいました……でも貴女は大切な人には手書きでしょう?」

 はっと気付く。たしかに、僕は『あのとき』手書きの私信を残した……

 僕に発泡酒をお酌しながら、やんわりと諭す斎藤。

「世界でいちばん重要な仕事をしているのは、目立たない人たち。腎臓や肝臓へのダメージは傷みを伴わない。本当に大切な人が出てきたらどうしますか?」

 僕はここで恥入った。僕を振った彼氏……しょせん、肉体関係しかまずなかったのだよな。薄っぺらな仲、一人身でいることを避けるためだけの……

 斎藤は肯いた。こいつ哲学者か? 戦士にして技術者にして……世の中できる人間は違う、というものだな。いや、こいつは人間ではないし……とにかく語るハムの星、公星?

「幸せであることに罪悪感を覚えるメカニズムが皮肉にもあるのですよ。それでも、宇宙の中心は地球で自分、そして社会の中心はお金を持っている自分なのです」

 これには納得したが、別の考えが付きまとう……。

 もはや頼れる政党なんて存在しない。しかもいまの過酷な国際・環境・資源・経済下で、一つコケたら日本は転覆だ。与党の横暴が続くが、かといって野党に有効な代案も無い。

 そもそも政治で経済が良くなるなんて幻想だ。どんな無能が指導者でも、景気が良ければ支持される。辣腕家が最善を尽くしても、経済が低迷すれば失脚する。

 くだらないな、社会なんて……そもそも生産的な仕事と、精神文化面の拾足は同一経済下にありながら、完全に別次元のベクトルだ。数学的に、どうやったって一致するものか。

 悩み迷う僕に、そっと斎藤は語りかける。

「一時だけ、一面だけを見て人を判断しがちですが、人生すべてにおいて順風満帆に送っている人を拙者は知りません。幸せな中に居過ぎて幸せを感じなくなってしまったように」

「僕は一面でも、順調だったことがないよ」

「たとえそれでも。『つらい』の種をまき続けていると、ふと気がついたときに突然『幸の』花が咲いているのを見つけるものです。失敗した経験は忘れないですよね。成功した経験は忘れてしまう、いや気がつかないことさえあります」

 誰にも認められない、挫折ばかりの人生を歩んできたけれど、何かを人に任されたとき、それらが全て自分を支えてくれる柱となっていたのかも……。

「そう……なのかな。僕は僕にできることを、するだけ……それだけで……」

 まだ夕食の途中というのに、酒が回って睡魔が襲ってきた。

「拙者は本来夜行性ですから、おかまいなく。ぐっすりとお休みください。その間に、ATとエーテルソードを制作に掛かりますよ。さすがに一晩では無理ですが、数日頂ければ」

 僕は布団に入り、幸せな眠りの中に落ちて行った。