光は、射し込まなかった。だがこの夜明けは、勝利の朝として人々の心に残るだろう。耳を劈く雷鳴とともに。嵐は街を襲っていた。平和な時代なら、嵐は民衆の敵だったろう。しかしここ近年では事情は違っていた。嵐が来たときは代わりに空襲はない、その理由から。
町外れの森の中。主のいなくなった館で、ドグはその問題を考えていた。なにが正しく、なにが間違っているか。そんなもの、絶対という答えはない。皮肉なものだ。必要悪、というものも世の中には確かに存在する。自分たちのような軍人なんて、まさにそれではないか。
ドグは一人ゆったりとした長椅子に腰を降ろしていた。そこは、客室だった。ドグの主人が、いつもかれを歓待していてくれた部屋。ノックにドグの思案は破られた。同僚が入ってくる。
「これでよかったのですか、ドグ」女竜騎兵トゥルースは聞いた。言葉は穏やかだが若々しい端正な顔には、憔悴の色がある。穏やかに、ドグは返す。
「わたしが新たな隊長では、それは不服だろうな」
「いえ、そんなことはありません。隊長はレイピアの護衛騎である、いえ護衛騎だった、あなたが適任です。わたしが言いたいのは……」
「レイピアのことか。『何故、こんな結末を迎えたのか。これでよかったのか』だな」
「そうです。あなたは、かれとは古いつきあいなのでしょう?」
「そう。当時わたしは、王国の警備兵だった。当時王国の騎士兵士なんてものは、堕落していて……忠実に任務をこなすなんて、わたしくらいのものだった。しかしそれは、同時に民衆の反感を買う結果となった。ドグ。王国の犬、それがわたしの通り名の由来だ」
「あなたのことです。民衆暴動なんかでは最前線に立ち、汚れ役ばかり引き受けていたのでしょうね。そしてほかの警備兵は、汚職まみれの弱いものいじめって寸法でしょう?」
「それほど、かっこよくはないさ。当時わたしは仕事に誇りを持てず、酒に溺れていた。そんなときだ。レイピアがわたしの前に現れたのは……かれが現れなければ、わたしも他の奴等と同じように堕落していただろうな」
「どんな男でした、レイピアは」
「最初の印象はとても悪かった。鼻持ちならない青年だったよ。わたしと同じくらいの年齢なのに、王国の士官候補生。いやかれに別に、偉ぶったところがあったわけではない。単に、わたしのひがみだったがね」
「突然現れた、士官。そして辞退できない任務を受けた。それから、戦いに巻き込まれた……レイピアの勧誘の手口は、そんなところですか」
「そう。そして……わたしは、義務という言葉の本当の意味を知ったんだ」
「レイピアがあなたドグに、教えたのですね。そのはずなのに、かれは。撃墜王との誓いを破るなんて、不名誉を。魔剣が失われるとは。これからわれわれは、一体どうなるのでしょう」
「そうだな。レイピアは、魔剣を自ら捨ててしまった。魔剣の封印を避けるために、つまり自分の目的を敗れてなお押し通すため、か」
二人の間に、重い沈黙が訪れた。悪鬼の軍勢の脅威は迫る。生きた融合炉が発見されたというのに、それを使い竜との約定を果たすための魔剣はない。正しく使用するための勇気と見識を持つものも失われた。撃墜王の目指していた魔法文明の再興はどうなる。そして絶望的な戦いの行方は?
トゥルースはぽつりと言った。「レイピアもまた、英雄とはなれなかったということですか」
「英雄? それは、どちらともいえない。ただ戦場で多くの敵を倒す者が英雄なら、人殺しが英雄になってしまうだろう」
「真の英雄とはどんな存在なのか、ってことですね」
「レイピアは、惜しい男だった。たしかに彼が、人々をまとめ上げれば。内乱、他国からの侵略、竜だけでなく他の悪鬼からの脅威も無くなっただろう。そうして人々を救えば、確かに彼は英雄、と呼ばれたはずだ……たとえそれに至るために、幾万の屍山を築いたとしても」
「では犠牲を出すことなく人々を救えば、それは英雄的行為と呼べませんか?」
「確かにそうだが、そんなことは不可能だ。味方に犠牲がでなくても、敵は死ぬ。それを忘れてはならない。すべての戦士は、その宿命と原罪から逃れることはできない」
「いえ、聞いた話ですが。二年ほど前、ある都市が侵略を受けたときに、単身敵陣に乗り込んで敵の注意を引きつけ、民衆の逃げる時間を稼いだ戦士がいたらしいんですよ。つまり、かれは味方も敵も傷付けてはいない」
「ほう。それは興味深いな。本当にそんな戦士がいるなら、会ってみたいものだ。本当の、英雄に」
「しかしわれらの英雄は、空に散った。それでもわれわれは、前に進まねばならない。ですから、ドグ」トゥルースは、真摯な声で願った。「レイピアの遺志を継いで、われらを率いてください」
「わたしは、そんな器ではない」ドグは明言する。「わたしはただの一兵士に過ぎない。目の前の敵を、倒す。それ以外のことはできない。大局から戦場を……いや、もっと広い世界を見下ろす、レイピアのような真似はできないさ」
「ではこれからおこるのであろう戦乱に、まさかなにも手を打たないというのですか」
「違う。わたしたちのできる限りで、目の前の人々を救う。竜の力はそのために、使おう。さあ、忙しくなるぞ。また、みんなで国中を飛び回ろう」
「まるで、『あいつ』のようなことをいうのですね。敵であった、あいつ。最後に、レイピアが助けるように命じた、かれ」
「そうだな」ドグは微笑んだ。もはやかれに賭けるしかないのだから。「かれが、助かったのは幸いだったな。レイピアの遺志を継げるとしたら、レイピアを墜とした竜騎兵しか、いないのだから」
朝からの雷雨は、まだ続いていた。灰色の空のもと都市アルセイデスの外れにある、ちっぽけな教会で、幾人かがある行事を行っていた。稲光が時おり、ステンドグラスを眩く照らす。祝福すべき行事には、およそ相応しくない日だった。
主役は、さえない男だった。でっぷり太った、白髪混じりの頭髪の中年。武骨な鎧を身につけているが、その背には血のような真っ赤な染みがある。男の為に、式典に列席してくれた人は少なかった。半生、非道を重ねてきた自分には、しかたがないと男は感じていた。だが、男は満足だった。
式典は、淡々と進んだ。訓示と祝辞を述べる、数人の武官と文官。そして、佳境に入った。儀礼用の立派な鎧をまとった女騎士が、台上に登る。男は階段を数段登り、女騎士の前に歩みでた。緊張で、身体が震えるのを押さえられない。転ぶようにひざまづき、両手を祈るように合わせた。
「神の御名において、我、汝を、騎士となす」女騎士は言うと、男の肩に軽く剣の刃を当てる。
この瞬間、男は騎士となった。
式典は終わった。まばらな拍手が送られる。
人生最良の日だった。大変な、名誉だった。同時に、恥じもした。かつては栄光と思っていた、略奪と暴行の日々が、なんと空虚なことか。騎士は、男泣きに泣いた。
「おめでとう、騎士ブラジオン」騎士フレイは新たに騎士となった男に、優しく声を掛けた。
「ありがとうございます、シャムシール卿フレイル閣下」涙と鼻水をすすり、男は分不相応な栄誉に顔を歪めた。
「お礼ならあなたを推挙した、「撃墜王」に言うべきよ」
「そうですね」内心、誓う。撃墜王の烙印、血染めの鎧をまとう限り、高潔な騎士であることを。「彼には、感謝の言葉もありません。二人の撃墜王、互いの協力で戦争を勝利に導いた、二人の英雄。かれらが、この国を守ってくれた。そして、これからも。こんな、素晴らしいことはありません」
「そうね。もう、戦乱はこの地から追放されるのね」
「そうすると」笑みを見せる男。「騎士や兵士は存在する理由がなくなるのではないですか?」
「そうかもしれないわ。どのみち騎士の地位など、有名無実よ。だから、ね。わたしに敬称は、いらないわ。フレイと呼んで」
「そんな。閣下を呼び捨てにはできません。名ばかりは同じ騎士とはいえ、階級も力量も違います」
「それは、関係ない。あなたが、もうわたしの仲間だからよ」
「ありがとうございます、フレイ様。では、ぜひわたしも略称で呼んでください」
「略称? そうね」
「例えば、ジオンとか」
「ジオン? それは駄目」悪戯っぽく断るフレイ。「あの偉大な騎士、ファルシオンの名と似過ぎるもの。わたしはもちろん、あなたもシオンには、足元にも及ばないのだから」
「もっともです。では、他の綽名で呼んでください」
「酒樽」フレイは、さらりと言った。
「!」ブラジオンの目は、点になった。
「冗談よ。でも、あなたとは良い飲み友だちになれそうだわ。よろしくね、ブラジオン」
とにはかくあれ、ブラジオンは感激した。しかし彼は、後に{ジャック二号}と呼ばれることになる可哀相な運命を、このときは知る由もない。
と、やおらバタンと、扉が開いた。雨風が吹き込み、燭台の蝋燭を吹き消した。だれか入ってくる。
「失礼します!」大きな声がした。ずぶぬれで、竜に乗るための金具を衣服に付けたままのその男は、フードを撥ね除けて顔をさらした。ジャックだ。「急報、重大事です。フレイル閣下、耳をお貸しください」
この悪天候の中、飛竜で連絡を届けるとは、ただごとであろうはずがない。和んだ雰囲気が、一転して緊張した。フレイは聞いた。顔面が見る間に、血の気を失う。フレイはただ一言、悲痛にもらした。「どうしてなの!」
(続く)
後書き はい、ブラジオン。運だけで騎士になっちゃいます。勇猛に戦った報いですけれど。