深夜だった。星明かりしかない暗闇の中二人の男女は、寄り添うように立っていた。互いに言葉は交わさない。目線も合わせない。ダグアとスティレット。
二人の距離は触れるほど近かった。だがその間には、深い溝がある。
そこは待ち合わせ地点だった。しばし、ダグアは時を待った。空に見える星が、一瞬消える。ダグアには見えていた。フレイの旗竜、ファルシオンの到達を。
ダグアは手慣れた手つきで松明に火種を付け、息を吹きかけて燃え上がらせた。この目印の灯かりを高くかかげ振る。竜はなだらかに丘陵が連なる森林の中の、ぽつんと開けた空き地に舞い降りた。騎竜の上から、フレイが二人を見下ろす。
「ここまで、あっけなく行くとはね」フレイは、松明に映し出される二人の人影、ダグアに連れられたスティの姿を見て、安堵と感嘆の吐息をついた。救出作戦は、成功した。後はフレイの騎竜、ファルシオンの背にスティを乗せて、連れ帰るだけだ。スティは、無傷だった。敵は、馬鹿ではなかったからだ。重要な人質を、傷付けたり慰みものにしたりはしないのだ。
「あなたに頼んで、正解だったわ。ありがとう、ダグア」フレイは声をかけた。スティを鞍に招く。
「では、急いで。歩哨は倒しておいたが、追っ手はすぐに来る」ダグアはごく、事務的な口調で言った。
「え……?」フレイはぎくりと、ダグアを見つめた。
「他に方法があったとでも? 障害となる敵はすべて殺したよ、僕は」手を止めたことを咎めるように、暗殺者はいらいらと言った。松明を投げ捨てる。揺らいで消える炎。たちまち、漆黒の闇が辺りを覆った。ダグアは身を翻した。目をそらし、歩きだす。
ダグアは外見上、武器は帯びていない。しかしその衣の下には数多くの殺しの道具が隠されているのだ。
ダグアの変節を、フレイはどう受け止めるだろう。いままで、戦いを殺しを嫌悪し、仲間の戦いすら非難してきた自分の変わりようを。無論、殺さずに麻痺させたり、眠らせたりすることも練達の暗殺者には可能だろう。しかし、単に殺すよりそれは遥かに難しいのだ。それに、スティ。彼女はすっかり脅えきっている。敵ではなく、救出者であるダグアに……。
「では、また。ダグア……気をつけて離脱して」フレイの声は、震えていた。スティを乗せ、フレイの竜は空に舞い上がった。
後は陽動や囮となっていた他の仲間を含めて全員が撤退すれば、作戦は完了だ。ダグアはフレイが飛び去るのを、見守っていた。追撃されてしまえばフレイが離脱するのは困難であると、承知していた。敵竜騎兵はこぞって二人乗りで無防備なフレイを狙ってくるだろうから。だから。
ダグアはフレイらが見えなくなると、森林の中を今までと逆に走り出した。飛ぶように走っても軽快な歩みは、地面にほとんど足音を立てることはない。暗闇の中だと言うのに草や蔦、枝に足を取られることもない。ほどなく、目的地へ辿り着いた。素早く木陰へ潜む。
「始まっているね」前方を確認するとつぶやく。敵空賊団の拠点に、大勢の都市の兵士が攻撃を掛けている。この地上戦はいまは都市の軍隊が押しているが、竜の数は空賊の方が多い。アトゥルとジャックが空で空賊の竜騎兵を牽制していられるのも、あと僅かだろう。ひとたび敵の竜騎兵が地上部隊に攻撃をかければ、味方は総崩れだ。
ダグアは自分の武装を整えた。レンズの仕込んである鋼鉄のフェイスマスクを付け、同じく先端にレンズのついた石弓を構える。望遠鏡となる、自分の装備で彼は戦場を観察した。倒れている兵士は、幾人もいる。味方一人、人質一人を救出するために、犠牲となったのだ。
ダグアにはこうした事実の、倫理的な善し悪しはわからなかった。だが、彼には以前のような迷いはなかった。経験則、処世術、だった。しかたないではないか。迷いがあっては戦えないのだ。目標を決め、計算機で距離を計る。視野が、妙に狭いことに気付いた。戦いの興奮から集中を欠いている。ダグアははっとし、自制しようとした。深呼吸し、息を整える。
「らしくもなく、熱くなっているな。僕は」スティレットのためだからか? 馬鹿な。自嘲ぎみにつぶやくと、太矢をつがえる。狙いを定め、引き金に指を掛け……
ダグアの矢が、一人の胸を貫いた。
半刻もすると、戦局は決まっていた。つまり、逃げる味方、追う敵という図式に。空賊の竜が、地上を攻撃し始めたのだ。兵士たちは前からの作戦どおり、三、四人ごとに別れ散り散りに逃げ散った。遊撃戦、散兵戦といった戦術は、あまり馴染みのあるものはいないだろう。
フレイの軍は、幾人か下士官にケインの元部下がいた。彼らは巧みに勝ち目のない敵竜からは逃げ、追ってくる賊には反撃して討ち取っていた。そうやってしだいに分散し撤退を進めていく。
もっとも、敵中に取り残されていた戦士もいた。つまり、囮役となったある重戦士は。
「アクス! わしはおまえをゆるさんぞ! おまえさえ逃げださなければ、こんなことには! 卑怯者アクス! 憶病者アクス! 裏切り者アクス!」五十名もの敵に包囲される絶望的な戦況の中、戦斧を振り回しながら、ブラジオンは吠えていた。狂乱めいた一撃に、賊どもは中々近づけないでいる。矢も、幾本もブラジオンに射られている。しかし重戦士の分厚い板金鎧に弾かれ、ほとんど傷を与えられていない。
ある賊の一人が彼に近づき、至近距離から石弓を射た。矢は貫通した。が、ブラジオンは痛みなど感じていなかった。怒りにまかせてブラジオンは踏み込み、戦斧を払った。賊の首は吹き飛んだ。しかし、賊は圧倒的多数で完全にブラジオンを包囲していた。重戦士の体力が尽きるのも、時間の問題だった。
「わしが今日死ぬとしても、おまえを先に地獄へ送ってやる! 呪ってやるぞアクス! けだものの分際で!」うおおと吠えながら、ブラジオンは敵に突進した。敵は、向かってこなかった。逃げるでもなく、引く。反対側の賊が逆に、間合いを詰める。敵は、竜騎兵の援護を待っているのだ。ブラジオンは悲愴な覚悟を決め、地獄に落ちるに幾人の道連れを作れるものかと、戦斧を振るい……
と、巨大な影が覆いかぶさってきた。次の瞬間、紅蓮の業火が地上を舐め尽くしたのだ! ブラジオンは最期が来たのを知り、絶叫した。すべてが、炎に包まれた。
(続く)
後書き 経緯を略して、スティ救出成功。問題はその後の始末ですね。ブラジオンは無謀にも果敢に闘っております。余談ですが重厚過ぎる鎧は機動戦術の邪魔です。着ているだけで疲れますし。軽装化した歩兵が強いのは歴史が証明しています。