「死ぬ……今度こそ死ぬ……」オレアデスの外壁のそばにある巨大な居室に閉じ込められ、部屋に収まらぬほど巨大な体躯の竜アクスは野太い声で悲痛につぶやいていた。
「こんなときにアルセイデスからの援軍要請に応じるなんて! ブラジオンのやつ、勝手な真似を!」主に対して、不謹慎な言葉だとは重々承知していた。しかし、アクスは言わずにはいられなかった。「度量、技量、知力、人徳。何一つ備わらない。なぜこんな男が竜の主になったんだ?」
とは言え、空賊の大半は悪知恵と暴力には通じているが、支配者たる道徳観念には欠けている。ではアクスの主人はどうかと言うと。小人物なのだ。悪人ではないというより、大それた凶行を行えないだけだ。そのブラジオンは、意見に反対したアクスを鎖で縛り部屋に監禁していた。
憶病者! 卑怯者! 不正を見逃して生き延びたいのか? ブラジオンの濁声が罵声がアクスの脳裏を何度もよぎった。
「違う! わたしは死ぬのが怖いわけではない」アクスは声に出して言った。だから鎖に繋がれるときも暴れはしなかったのだ。「だがとうてい、名誉ある死は望めない。あの男のもとでは! ああ、どうすれば……」
「助けてあげましょうか、大きなドラゴンさん?」不意に、声がした。
アクスはぎくりと声の方を向いた。独り言を聞かれるとは夢にも思わなかった。主の声ではない。連絡の担当員でもない。竜は馬などと違い、守り人はいない。衛兵もいない。敢て近付こうとする野次馬も、好奇の対象としてより、竜の畏怖が当たり前となった今では、いない。
では、誰だ? アクスは声の主を見つめた。すでに鍵が掛かっていたはずの、この部屋に入っている。侵入者ではないか! だが……アクスは途方にくれた。
「助けてあげましょうか、飛竜アクスさん?」繰り返し、声は尋ねた。
「どうやって入ったのだ、ここは子どもの遊び場ではないぞ」アクスは答えた……目の前にいるのは、少女だった。アクスの記憶にある女性と比較しても小柄で、容姿は人間の目には可憐に映る種類かもしれない。明るい白の衣服に、同じく明るい栗色の長髪、茶色の目。
背には、変なものを背負っていた。一見弓のようだが、妙な形だ。なんで何本も弦が張ってあるのだろう。
「私は、子どもと呼ばれるような歳ではありませんよ」少女は悪戯っぽく笑った。「若く見られたいという歳でもありませんけど」
「悪い子は、竜の餌にされると親から聞かなかったか?」
アクスはぶつぶつと言う。こんな少女を脅してもしかたないが。
「だから、私子供ではないですよ」
「餓鬼の戯れに付き合うほど、竜というのは暇ではない」
「餓鬼ではありません。それに、暇に見えますが」
「お嬢ちゃん、良い子だから、人の話を聞いておけ」
「ですから……? アクスさん、人じゃないですよ」
「言葉のアヤだ。そういう小賢しい揚げ足取りこそ、未熟な証拠だ」アクスはいらいらしてきていた。「なにをしに来たのだ!?」
「もちろん、こうしてあなたを助けに。そしてあなたの力を借りにですよ、アクスさん」
話しながら、少女は次々とアクスの枷と鎖の鍵を外していった。なぜ鍵を持っているのだろう。盗賊には思えないが。アクスはいぶかしんだ。「申し出はありがたいが、何の所以あって」
「私はあなたの主の上司の取引相手の、そのまた友人の娘です」
「それは、他人と言わないか?」
竜はふんと鼻を鳴らした。
「言いません。いえ、言いましょうか。上司の遠い知り合いですよ、あなたの愚痴を主人に伝えたら、どうなるでしょうね」
「はあ?」アクスは返答に窮した。こんな少女から脅迫を受けるとは思わなかった。だが、思い直して見れば……アクスは開き直った。「べつに、困らん。どうせわたしと主人には、なんら信頼関係も無い」
「!」少女は絶句した。ちょうど、竜に架せられた最後の鍵が外れた時だった。
「どうした、小娘」にやりとアクスは皮肉った。
「そんな答えは予測していませんでした」目に見えてしょんぼりと少女はこぼした。
「ふわっはっはっは!」アクスは声を上げ、身体を震わせて笑った。重低音の大音響。振動で、水鉢や窓が割れんばかりの大笑だった。少女は驚いて、体を竦め立ちすくんだ。騒ぎを聞きつけ、すぐに警備兵がやってくるだろう。アクスは言った。
「いいだろう。どうせ今の主人には、うんざりしていたんだ。わたしに乗りたまえ、お嬢さん。すぐにオレアデスを離れるぞ」失意の日々が続き、アクスはこのところずっと意気消沈していた。しかし、これからはおもしろいことが始まりそうだった。
「私の頼みを聞いてくれますか?」
「いや、話しの内容次第だな。わたしはまだあなたを主人とは認めたわけではないから。だが、恩義は忘れない。間違ってもお嬢さんを、晩飯に食したりはしないさ」
巨大な竜は小柄な少女を乗せ、大空に舞い上がった。突然の竜の行為に、警備兵と市民は大わらわだった。しかし飛竜を追えるものは飛竜しかいない。都市の喧騒を後に、アクスは悠々と飛び去った。
「ひとつ質問させて」上空で少女は竜に尋ねた。おそるおそる、おずおずと。「……ひょっとして朝食では、私を食べない?」
後書き 端役の飛竜アクスと、名も告げない謎の少女。どちらも今後の展開にかかわってきます。このくらいはほのぼのと。