現在急激な環境変化をしているこの国に世界情勢であるが。私見では政府が例え有能であれ、経済が伴わなければどのみち現状は変わらない。外交も停滞するだろう。いまの時代先進国同士で戦争なんて起こったら、地球は滅ぶ。一向に放射能の検出されない某悪の枢軸国の核など可愛いものである。
ビジネス書は自己啓発書の類が多いが、その多くがトンデモ本である。だいたい、景気経済や社会、政治、外交、防衛などの諸問題は、悪くなるか、良くなるか、現状維持かの三つしかないのが当たり前なのを分からないのか。
このうち現状維持とはあまりにインパクトがないので、本来なら大半を占める割合のはずなのに、除外され出版されない。すると無論、残った楽観論か悲観論の書籍は、発行から数年後に的を射ていたとして注目を浴びるといった寸法だ。
芸術に公式は無い。あらゆる文化、学問に絶対的な公式など存在しない。セオリーなんかあるだけ邪魔だ。無駄といっても良い。
小説を起承転結でまとめる理由は無い。激動たる転のみ描いて想像に任せ終わるのも好し。起のみ派手に打ちたて、以後の展開を読者に命題を課すのも好し。結のみ作って、言いたい事を強烈にアピールするのも好し。承だけ美文に仕上げるのも好し。
転は何回繰り返してもかまわないし。起承転結の承に限れば、それだけだらだら繰り返されるのは無理があるが、小さな山場の転と結、新たな起にサンドされていれば一向に構わない。大長編とはそうしたものだ。
冒頭に死体を転がせ、とは殺人ミステリーにおける名文句ではあるが使い古されたネタ、文字通り死体の山を持ってきてもなんら斬新ではない。むしろこの殺伐とした時代倦厭、嫌悪されるだろう。歌の歌詞で言うなら、サビを冒頭に持ってくるのが一昔前の斬新と聞いたがいまはどうか。
変わって小説を構成する上でのテーマ、ストーリー、キャラ造形だが。テーマ、つまりメッセージ性を強調して成り立つのが本来の小説の在り方だろう。しかし大半の物語は、ストーリーから構築される。逆に背景世界が緻密に作り過ぎてありなかなかストーリーが始まらず、読めない通称傑作も多い。
というか、ほんらいテーマにストーリーに背景世界あってこその小説なのに、いちばん重視されるのが驚嘆すべきキャラクター性。次にストーリーと背景が出来て、最後にテーマは後付け設定で申し訳にくっつけるスタンスで、ここしばらく流行続くキャラ萌ラノベは押しとおしてある始末だ。わたしも悪魔に魂売り渡してそうしたラノベを作ってしまったから、非難はできないが。
オリジナル創作家が他人(わたしを含め)の作品を評価するのは大歓迎だが、自分は創作をしない批評家なんて、わたしは認めない。そうした批評なんてもの有害なだけだ。
特に馬鹿な自称批評家はただキャラが登場するシーンで、地の文の描写に服装がないと、「こいつは裸なのか」などと言いがかりをつける。単なる揚げ足取りだ。長編のメインキャラなら、服装はもちろんルックスも背丈も体格も髪形も肌、瞳の色も年齢もアクセサリーも記さなければならないだろうが、短編や一発登場キャラにそんな描写は不要だ。
あるいは「普通の駄作はキャラのセリフがみんな同じ声に聞こえる」とか言うが、己の想像力の欠如ではないか? 同時に創造力も無いくせに。わたしは筆致が一見稚拙に思える童話すら、キャラに独自の声をイメージして読むぞ。
中学生が戦闘機を操縦できるものか! などとも言われたが。史実、十四、五歳の少年兵が即席訓練され、前線に送られていたではないか! まあ確かに、アクロバットどころか発着艦も満足にできない惨事だったそうだが、そうではないきちんと訓練を受けた兵士は十時間ほどの飛行訓練で、離着陸に旋回を覚える。厳しい試験をパスしたエリート兵だが。
ちなみに飛行機操縦の最年少は、八歳の少年らしい。いかに幼くして操縦できるかが、かなり過去の話だが海外で競争があったらしく、後に七歳の少女が飛行機を操縦したが、悪天候の中墜落事故死して、この競争は終わったはずだ。
各章の長さのバランスが悪い、なんて素人の指摘もあった。詩ならぬ散文にそんなもの関係あるか。過去の巨匠の名作に、普通の章は数十ページあるのに、とある章はまったく素性不明の二人がキーとなる会話を二言三言交わすだけで、一ページの数行で終わるものすら存在するのだ!
芸術における批評家が如何に浅薄かの典型例として、古い話だが絵画、『最後の晩餐』は有名だ。修復される前の薄汚れていた過去は「暗闇掛かった色彩に、晩餐の神秘的な情緒がある云々」、などと評価されていた。それがいざ修復してみたら、現在伝わっているように、光差し込む鮮やかな明るい絵だったことが判明した。
ジャンルを問わず芸術界においては、作品の良さに関わらず、それを掘り出した『目利き』が幅を利かせるのが伝統だ。日本の茶器における、縁の欠けた茶碗、水の漏る湯飲み、底が空いた杯等が典型例だ。本来なら一文にもならないガラクタなのに、高名な目利きが一言『趣がある』と評すれば、純金の小判で取引されるのだ。風聞に踊らされるブルジョア階級こそ滑稽なカリカチュアではないか? 死語評価されるアーティストも多い。
また逸れるが川柳はユーモアにウイットがあって好きだが、俳句は嫌いだ。五、七、五に季語を含め情緒ある詩を作れ、とされるが。それは如何に読み手が感受性豊かに好意的に読んでくれるかで決まる。しかし仮にそんな好意的な読み方を、どんな文章にでも当て嵌めてしまえばどうなるか。長編小説の一語一句をそこまで賞味する物好きがどこにいる。
ちなみにわたしは俳句教室で、「メザシとはゼロにペロりと喰われたり」としたら、ユニークだとして講師から褒められた。しかし内容はまったく通じていなかったのだ。
講師はゼロが飼い猫かなにかと思ったと言ったが、実は大戦時のゼロ戦なのだ。メザシとは米軍P38ライトニング双発戦闘機。外見がメザシにそっくりで、機動性が悪く軽快なゼロ戦なら簡単に撃墜できるので、「ペロりと食えるペロ8」とされていたのだ。つまり川柳だったのだが。
わたしの創作経歴もなんら成果を出せずまま、長く続いたものだ。「好きこそ物の上手なれ」ではなく「下手の横好き」に終始するな。言葉遊びなら、「恋に恋する」とは言いまわしの妙に言うが、「愛に愛する」とは実に自然な言葉でしっくりといく。愛を愛してどこがおかしいか。愛とはすべてを含む。
〆にするが。ベターは常にあるはずだが、ベストなんてものは宇宙に存在しない。悪はとことんまで墜ちても果てないが、最悪は宇宙に存在しない。わたしもこの乱文を物好きにも読まれた貴方も、微力を尽くし、高みを目指そう。〆