高校の頃。朝礼かなにかで、こんな話を聞いたことがある。

「同世代の高校生が、骨肉腫に冒されて死んだ。しかし、彼女の闘病生活。死ぬ間際の集中力、勉強への意欲は素晴らしかった。人間、死ぬ気になればなんでもできるものだ」

 賛否両論あるだろう。こんな意見もあるはずだ。「最後くらい、自由に遊ばせた方が良い。世界旅行でもさせて伸び伸びさせたい。どうせ死ぬのに、勉強なんてしたって仕方ない……」

 またこんな意見も。「恐ろしい現実から目を逸らすために、勉強をせずにいられなかったのだろう。可哀相に……」

 だが、違うかもしれない。勉強を何の為にするのか。その本質的なことに、彼女は気付いたのでは、ないだろうか。だから、彼女は。何より現実、物事の真理を直視して、誰よりも素晴らしく生き、そして死んでいったのではなかろうか。

 勉強とは、本来この世界とその文化を知るためにある、ということだ。そして文化は幸福になるために存在するのだ。

 主要、五教科。国語は他者とのコミュニケーションという、文化のために「会話とは文化の中の文化」という。英語は異国の文化に触れるために。社会は人間の住む世界そのもの、歴史はその歩み。さらに理科。物理は物の理(ことわり)の名前通り、この宇宙がどう働いているかを表す、学問。化学もアプローチは違うが同等、生物は生きるものの神秘。最後に、数学。数学は理科を初め他のすべての文化を、論理的に表すのに必要となる。理想を言えば、ここですべての学問は一つに統一される。

 だから……彼女にとっては勉強をすること自体が、世界旅行をするのと同等の意味を、持っていたのではないだろうか。

 劣等生なわたしのいえたセリフではないが。だがこれは事実だと、いまになって思う。

 わたしは高校の時、模試で物理だけ校内一位だった。しかもそのテストは、出題範囲がまだ学校で習ってなかったのだ。わたしは別に予習していたわけでもないし、予備校なんて通っていない。最初のテストで担任の国語教師からは「勘がいいんだな」と皮肉られた。確かに、マークシートの多岐選択問題だった。運がよければ当たるわけだ。

 だが、事実は違う。わたしは勘ではなく、きちんと理詰めで知りもしない問題を考え、解いていたのだ。物理式の意味を考え、その数値が実際の物理現象に当てはまると思った答えを選んだ。

 まあ不勉強だったわたしは、他の学生がきちんと範囲を学んで(つーかわたしはしなかった一夜漬けで)から受ける中間・期末テストでは一位は取れなかったが、物理教師が新任の美人なので気合で校外模試は取り組んでいた(不純な動機であれ、高校生の行動原理なんてこんなものだ)。

 国語も模試では理系生徒にしては突出していた。それも古典漢文ほとんどできないのに、現国だけで点を取っていた。校内上位十分の一位くらい。だが国語教師から嫌われていたわたしは、中間・期末テストでは不条理な減点をたびたびされ、成績は良くなかった。まあ嫌われて当然か、わたしは国語を教科書などで勉強していない。すべて小説や雑学本だ。

 英語歴史のような単純記憶ものは大嫌いだった。英語が一番苦手とはいえ、数学より国語、歴史ができたから文系の方が成績良かったのだが、夢抱いて理系に進んだ。

 しかし進学した後は、勉強に絶望した。大学では物理をはじめ理系科目は、高校なんかよりはるかに難解な数学ができないとなんら解けないのだ。最低クラスというのに大学のレベルは、わたしにはついていけなかった。電磁気学で必要な偏微積分が解けなかった。

 講義は黒板に数式がずらずら書かれていくばかりで、その数式が現実にどのような現象となるのかの説明はなにもなかった。あるいは、数式さえ理解できれば違ったろう。反面、唯一得意な情報理論の実験に計算機科目は楽しかった。

 勉強ができるということは、それだけで喜びなのだ。劣等生は、多くの幸せを失っているといえる。もっとも、ここまでの話は高校までの主要五教科に限った。芸術、技術、体育その他だってもちろん勉強であり文化だ。

 幸せは失ってから気付くものだ。満たされているときはわからない。だからって結果を出せない人に死ぬ気になれなんて口が裂けても言えないし言うべきではない。それは傲慢というものだ。そこまで思い詰めさせて何が残るというのか。

 健やかに、楽しむために、ただ自分で満足するために勉強を続けていきたい。

(終)