帝国戦闘機隊並びに歩兵隊は、撤退していった。惨めな敗走だ。戦闘機はともかく歩兵なら、竜騎兵隊を出撃させれば殲滅できるだろう。しかしそんな非道な殺戮を認める騎士ではないはず。
ソングは憂いていた。これで、なんなくシント共和国の防衛は成功した。シントにとっての脅威はむしろ竜騎兵だったから、そのドラゴンがこぞってシントへ恭順した事は大きい。後はキュート王国方面のオスゲル帝国軍を、いかに制するか、だが。
戦車が竜騎兵の前にはあまりに無力な事は証明されている。帝国の竜騎兵に加え、戦車までいなくなったとあれば、残りは航空機と陸上歩兵のみ。歩兵部隊など戦闘機隊の護衛、制空権が無ければ、裸同然だろう。竜騎兵でも戦闘機でも戦車でも投入すれば、文字通りひと思いに蹂躙、殺戮できる。歩兵など放置して良い。
そんな中、シントでひと波乱があった。亡命した王国竜騎兵の過半数が、シント市民登録を拒んでいるのだ。
繰り返すが、シント二十万の民衆には、すべて『端末』がついている。個人の見聞き体験したことのほぼすべては、総統の管理する中央情報集計装置に収められている。個人情報がことごとく記録されているのだ。もっともそれは総統以外の閲覧は違法で厳罰もの、それにほぼ不可能だ。凶悪犯罪捜査ですら検察がデータバンクを閲覧することは禁止されている。潔癖なシステムだ。
しかし、これを自由の束縛だと否定する者があまりに多い……ソングには理解できなかった。自由とはなにか? 監視されていなければ、犯罪に走るとでも自称しているつもりなのか?
確かに、この監視システムがあるためか、シントでは凶悪犯罪は少ない。戦場ならぬ国内で、個人の連続した無差別殺人、凌辱、暴行、略奪。歴史に聞く猟奇事件など論外……
というかそのような犯罪を行うようなサイコパス、百万に一人という割合だろうから、確率的にあまりに人口過疎のシントに現れる可能性は少ないのだろうが。
反面、軽犯罪に関しては黙認が当たり前だ。企業で従業員の賃金上げ交渉のデモやストライキが認められないと、あからさまな仕事のサボタージュとして跳ね返ってくる。私生活においても、合法ドラッグのタバコはまあ自由なのだが。合法ではない飲酒、その他有害なドラッグの使用。というか、反体制発言も公然と認められている。表現、思想、言論の自由は市民当然の権利だ。
シント管理制御区司令部会議室に四人は集まっていた。空戦隊大隊長ソーン・イング一尉と情報処理科軍属文官ペオース・ウィン一尉、それに心理医療部総隊長クワイエット・ラプター一佐、一尉待遇の客員指揮官ティール・イスだった。四人を前に、モニター越しにシント総統はいつになく狼狽して訴えていた。何故将官将校全員を集めないのか? ソングはこの会議が、総統個人的な嘆願であるな、と気付いた。先行きに用心する。
総統は語った。「ラドゥルを探さなくては! かれはいま極めて危険な人物と接している可能性が高い」
ソングは問い返した。「は? 極めて危険な人物とは、ラドゥルのことではなかったのですか。彼はシントを乗っ取れる魔力の持ち主です。幸いなことに、そのような野心とはまったく無縁の飄々とした男ですが」
「わたしの膨大なデータ量から引き出される計算処理の確率的可能性の高さは、まったく予期しえない数値を弾き出すことが多々あるのです。実のところ、ペオシィンが接したであろう危険な人物とは結果的にはラドゥルでしたが、わたしは事前に正確には彼の存在をつきとめてはいませんでした」
しかしソングは悲痛に思っていた。シーカーセンサーの能力は、あくまで伝って確認できる視野が覗けるだけ。常人に巨大なシントビルディング街のどこかに転がり落ちた、砂金の一粒を探せと言われても無理なようなものだ。彼からの連絡を待つしかない。
それにラドゥルの能力なら、自分の気配を消すことができる。まさにそれを行っているのだとしたら確率論的に不可能だ。物理法則に逆らおうとするなど、科学文明化されたシントにあってはならぬこと。法則を応用して常識を打ち破ってこその科学だが。
ペオシィンと一対の、シント軍属の通信戦部隊一尉待遇の任官の報を聞いたら、ラドゥルはどう思うだろうか。ソングは思いあぐねていた。彼のような人間は、軍に束縛されるを嫌うはずだ。
「そこで一つ策がある」ラプター一佐は発言した。「私にはこのシントで例外的に名前、本名がある。トモムラ・シズカ、漢字で『朋村雫華』だ」
ソングは驚いていた。「御名前が! 姓まであるなんて。大変な名家の生まれなのですね」
ラプターならぬ朋村は淡々と述べた。「そうは言えないが、朋村家は惨劇以前の代から続く旧家で、地位階級を狙う金持ちの圧力を受けていた。家紋とわずかな土地と財産の安全のためには、子は権限を担う軍人にならなければならなかった……例え女子であれ」
総統は悔しげに言った。「シント市民識別番号QTMS2……朋村雫華一佐、お詫びいたします。わたしがもっと早く総統位にあれば、そんな奸臣捕まえて財産剥奪していますよ。優しい貴官が、軍人になることはなかった。医師になれたはず」
「恐縮です閣下、お気遣い感謝します。私は閣下の御贔屓で、非才の身なのに一佐になれたのですから」朋村は一礼した。
「わたしは贔屓などしませんよ、実力と実績のみ評価します」
「ありがとうございます。策とは、私の率いる心理戦隊の士官に一部諜報員としての兵卒を用いてもらい、情報収集するのです。その場合、諜報員は異国へ飛びますから、各々に異国で相応する名前を授けていただきたいのですが……」
それまで黙っていたティルスが発言した。「賛成する。自らに名前すら無いようでは、一個人を国家の部品にするようなものだ。国家が民衆をまとめる以前に、民衆が国家を築くのだからな」
ソングは笑って賛同していた。騎士に二言は無い、それが矜持の男の断言は貴重だ。「見事な御見識ですね、騎士殿。ところでペオシィンは大人しいですね……ペオシィン?」
お菓子に夢中になっていたペオだが、二度目の問いで気付いてくれた。「すまない。だって、カロリーオフの人工甘味料のドーナツにストレートハーブティーだぜ。いくら飲み食いしても太らない。良い国だな、シントは」
「それも退廃かもしれません。世界には飢えに苦しむ難民がいるのですからね。かれらにとって、カロリーの無い食べ物など、信じられない愚行に思えるでしょう。ペオシィン、貴女は成長期。タンパク質を中心に栄養摂取すべきですよ」
「ソング、あなたこそ成長期にかなりカロリーを節制していたのでは? そういや、総統閣下はずいぶんと細身でいらっしゃるが、同じく成長期ではないのか? 俺より年下だし」
モニターに映る総統は寂しげだった。「わたしは胃腸が弱いのです。いえ、身体全体が。生命維持装置のあるプライベート・ルームを離れては生きられません」
ペオはこのセリフに恐縮している。「御無礼でした、たびたび申し訳ありません、閣下」
「わたしが元気なときは、総統たる義務と責任に掛けてシントは護って見せます。わたしが病んでいるときの前線直属指揮官たちに集まって頂きたかったのです。それが司令官職の将官が出席していない理由です」
ここで、ノックがした。朋村一佐が「入れ」、と命じる。会議室に入って来たのは、上級文官だった。
彼は報告する。「総統選挙開票終わりました。第一市民閣下に、シント共和国総統職留任が決定されました……」
吉報に場は、どっと和んだ。ソングはこれでシントも安泰と深々と一息ついた。しかし。
文官はもう一報伝えていた。「……オスゲルがキュート領内に、軍事民間関係なく、無差別砲撃を開始した模様です」
元王国騎士ティルスの碧い眼にぞっとするほどの怒りの炎が浮かんでいた。ソングは正視に堪えなかった。
ソングは憂いていた。これで、なんなくシント共和国の防衛は成功した。シントにとっての脅威はむしろ竜騎兵だったから、そのドラゴンがこぞってシントへ恭順した事は大きい。後はキュート王国方面のオスゲル帝国軍を、いかに制するか、だが。
戦車が竜騎兵の前にはあまりに無力な事は証明されている。帝国の竜騎兵に加え、戦車までいなくなったとあれば、残りは航空機と陸上歩兵のみ。歩兵部隊など戦闘機隊の護衛、制空権が無ければ、裸同然だろう。竜騎兵でも戦闘機でも戦車でも投入すれば、文字通りひと思いに蹂躙、殺戮できる。歩兵など放置して良い。
そんな中、シントでひと波乱があった。亡命した王国竜騎兵の過半数が、シント市民登録を拒んでいるのだ。
繰り返すが、シント二十万の民衆には、すべて『端末』がついている。個人の見聞き体験したことのほぼすべては、総統の管理する中央情報集計装置に収められている。個人情報がことごとく記録されているのだ。もっともそれは総統以外の閲覧は違法で厳罰もの、それにほぼ不可能だ。凶悪犯罪捜査ですら検察がデータバンクを閲覧することは禁止されている。潔癖なシステムだ。
しかし、これを自由の束縛だと否定する者があまりに多い……ソングには理解できなかった。自由とはなにか? 監視されていなければ、犯罪に走るとでも自称しているつもりなのか?
確かに、この監視システムがあるためか、シントでは凶悪犯罪は少ない。戦場ならぬ国内で、個人の連続した無差別殺人、凌辱、暴行、略奪。歴史に聞く猟奇事件など論外……
というかそのような犯罪を行うようなサイコパス、百万に一人という割合だろうから、確率的にあまりに人口過疎のシントに現れる可能性は少ないのだろうが。
反面、軽犯罪に関しては黙認が当たり前だ。企業で従業員の賃金上げ交渉のデモやストライキが認められないと、あからさまな仕事のサボタージュとして跳ね返ってくる。私生活においても、合法ドラッグのタバコはまあ自由なのだが。合法ではない飲酒、その他有害なドラッグの使用。というか、反体制発言も公然と認められている。表現、思想、言論の自由は市民当然の権利だ。
シント管理制御区司令部会議室に四人は集まっていた。空戦隊大隊長ソーン・イング一尉と情報処理科軍属文官ペオース・ウィン一尉、それに心理医療部総隊長クワイエット・ラプター一佐、一尉待遇の客員指揮官ティール・イスだった。四人を前に、モニター越しにシント総統はいつになく狼狽して訴えていた。何故将官将校全員を集めないのか? ソングはこの会議が、総統個人的な嘆願であるな、と気付いた。先行きに用心する。
総統は語った。「ラドゥルを探さなくては! かれはいま極めて危険な人物と接している可能性が高い」
ソングは問い返した。「は? 極めて危険な人物とは、ラドゥルのことではなかったのですか。彼はシントを乗っ取れる魔力の持ち主です。幸いなことに、そのような野心とはまったく無縁の飄々とした男ですが」
「わたしの膨大なデータ量から引き出される計算処理の確率的可能性の高さは、まったく予期しえない数値を弾き出すことが多々あるのです。実のところ、ペオシィンが接したであろう危険な人物とは結果的にはラドゥルでしたが、わたしは事前に正確には彼の存在をつきとめてはいませんでした」
しかしソングは悲痛に思っていた。シーカーセンサーの能力は、あくまで伝って確認できる視野が覗けるだけ。常人に巨大なシントビルディング街のどこかに転がり落ちた、砂金の一粒を探せと言われても無理なようなものだ。彼からの連絡を待つしかない。
それにラドゥルの能力なら、自分の気配を消すことができる。まさにそれを行っているのだとしたら確率論的に不可能だ。物理法則に逆らおうとするなど、科学文明化されたシントにあってはならぬこと。法則を応用して常識を打ち破ってこその科学だが。
ペオシィンと一対の、シント軍属の通信戦部隊一尉待遇の任官の報を聞いたら、ラドゥルはどう思うだろうか。ソングは思いあぐねていた。彼のような人間は、軍に束縛されるを嫌うはずだ。
「そこで一つ策がある」ラプター一佐は発言した。「私にはこのシントで例外的に名前、本名がある。トモムラ・シズカ、漢字で『朋村雫華』だ」
ソングは驚いていた。「御名前が! 姓まであるなんて。大変な名家の生まれなのですね」
ラプターならぬ朋村は淡々と述べた。「そうは言えないが、朋村家は惨劇以前の代から続く旧家で、地位階級を狙う金持ちの圧力を受けていた。家紋とわずかな土地と財産の安全のためには、子は権限を担う軍人にならなければならなかった……例え女子であれ」
総統は悔しげに言った。「シント市民識別番号QTMS2……朋村雫華一佐、お詫びいたします。わたしがもっと早く総統位にあれば、そんな奸臣捕まえて財産剥奪していますよ。優しい貴官が、軍人になることはなかった。医師になれたはず」
「恐縮です閣下、お気遣い感謝します。私は閣下の御贔屓で、非才の身なのに一佐になれたのですから」朋村は一礼した。
「わたしは贔屓などしませんよ、実力と実績のみ評価します」
「ありがとうございます。策とは、私の率いる心理戦隊の士官に一部諜報員としての兵卒を用いてもらい、情報収集するのです。その場合、諜報員は異国へ飛びますから、各々に異国で相応する名前を授けていただきたいのですが……」
それまで黙っていたティルスが発言した。「賛成する。自らに名前すら無いようでは、一個人を国家の部品にするようなものだ。国家が民衆をまとめる以前に、民衆が国家を築くのだからな」
ソングは笑って賛同していた。騎士に二言は無い、それが矜持の男の断言は貴重だ。「見事な御見識ですね、騎士殿。ところでペオシィンは大人しいですね……ペオシィン?」
お菓子に夢中になっていたペオだが、二度目の問いで気付いてくれた。「すまない。だって、カロリーオフの人工甘味料のドーナツにストレートハーブティーだぜ。いくら飲み食いしても太らない。良い国だな、シントは」
「それも退廃かもしれません。世界には飢えに苦しむ難民がいるのですからね。かれらにとって、カロリーの無い食べ物など、信じられない愚行に思えるでしょう。ペオシィン、貴女は成長期。タンパク質を中心に栄養摂取すべきですよ」
「ソング、あなたこそ成長期にかなりカロリーを節制していたのでは? そういや、総統閣下はずいぶんと細身でいらっしゃるが、同じく成長期ではないのか? 俺より年下だし」
モニターに映る総統は寂しげだった。「わたしは胃腸が弱いのです。いえ、身体全体が。生命維持装置のあるプライベート・ルームを離れては生きられません」
ペオはこのセリフに恐縮している。「御無礼でした、たびたび申し訳ありません、閣下」
「わたしが元気なときは、総統たる義務と責任に掛けてシントは護って見せます。わたしが病んでいるときの前線直属指揮官たちに集まって頂きたかったのです。それが司令官職の将官が出席していない理由です」
ここで、ノックがした。朋村一佐が「入れ」、と命じる。会議室に入って来たのは、上級文官だった。
彼は報告する。「総統選挙開票終わりました。第一市民閣下に、シント共和国総統職留任が決定されました……」
吉報に場は、どっと和んだ。ソングはこれでシントも安泰と深々と一息ついた。しかし。
文官はもう一報伝えていた。「……オスゲルがキュート領内に、軍事民間関係なく、無差別砲撃を開始した模様です」
元王国騎士ティルスの碧い眼にぞっとするほどの怒りの炎が浮かんでいた。ソングは正視に堪えなかった。