ペオはシント総統のプライベート・ルームへ続く厳重な扉が、開け放たれたのにいささか鈍重な威圧感を覚えていた。一つ扉が開くや、奥にまた扉。最初の扉を潜ってからその扉が閉まるのを待って、奥の扉が開く。四重になっていた。
 そこで武装解除される。ペオの短剣と、ラドゥルの拳銃。ソングの短剣と拳銃をケースに預ける。スキャンがおそらく行われ、非武装が確認された。
 最後の扉が開け放たれるや……明るく広い室内、小柄で線の細い裸体の子供の姿に驚く。この少女がシントの総統とは。
 はっと気づいて、ペオはラドゥルにさっと向き直るや、いきなり突き飛ばした。「ラドゥル、見るな! 女の子の裸を覗くなんて最低だぞ」
「構いません」子供の高い声で総統は答えていた。「わたしは男でも女でもないのですから」
「? どういうことだ」
「ペオにでも分からないことがあるんだね」ラドゥルは苦笑している。
 ソングは身振りで、静まりなさいと示した。次いで総統に問う。「役人どもが造反したというのは……どういうことでしょうか」
「わたしの罪です」総統は身を一瞬震わせた。「わたしは中央記憶装置の、機密情報エリアにアクセスしたのです。古来、封じられてきた禁断の情報を得ようと」
「閣下ですら閲覧できない情報など、あったのですか」
「過去の文明の遺産は……わたしの処理能力を持ってしても謎だらけなのです。それに法により、閲覧は禁じられていました」
「ラドゥル、手を貸して頂けませんか?」ソングは切実に嘆願していた。「貴方の能力なら、このシントの不平分子を抑えられるはず」
「僕の能力ではとても無理だよ、見えている範囲しか操れないし、シントの電子機器は何万どころか何億もある。比べたら、僕の一度の限界はたった千二十四までだ」
「それなら現在行われている空戦の王国戦闘機を撃退できませんか? シントの防空スクリーンからなら貴方にも見えるはず」
「僕にもできそうだが……撃墜するのは忍びないな。電子機器を不調にして追い払うか」
 このときペオはこの室内に、妙なデジャウを感じていた。いつか見た夢のような。ここへは来たことがある?
 モニターを覗き込む。一見でたらめとしか見えない配列で、0から9までの数字と、AからFまでの英字がびっしりと記されている……俺は……俺は!
 断片的ではあるが、いま成すべき知識だけほとんど暴走する妄想のようにどっと記憶が甦る。ペオは総統に尋ねた。「ペオースとはサイを振る壺のことと聞いたが?」
「ルーン文字からするとその通りですね。このシントでは本来使えませんが」
 ペオは記憶の彼方から引用する。「二十世紀、まだ双魚宮だった世紀末の物理学上のマクロな大発見『相対性理論』は。宝瓶宮二十一世紀、マイクロな『量子力学』により『神はサイコロを振らない』との説は破られた。ウィン……主流OSのことか。これは喜劇だ」
「なんのことですか、かつての西暦の時代をご存じとは……」
「俺にも訳が分からないのだから、誰に話してもどうせわからないさ。歴史が……歪められて……伝説になったというのか」
 総統はもはや、恐怖に怯えた声を絞り出していた。「貴女は何者なのです……記憶を取り戻されたのですか」
「俺は『籠の鳥』の一員だった……それも魔王を意味するゼロ。代々魔王は数学の天才。五十三枚目のカードはジョーカー、ワイルドカード。フール。まったく冗談めいているね」
「ペオシィン、貴女は光の文明の知識を有しているのですか? いったいなぜ……」
「俺の方が、なんでこんな荒廃した文明にいるか知りたいよ。ここは任せて。愚者一得だ」
「英傑です! 古代文明人とは」総統は高い声を上げていた。「時間は決して遡れませんが。未来へ飛び越える術ならあると、知識としては知っています。ペオシィン、貴女に打開策はあると?」
「PCはお手の物さ。これはOGIのようにはいかないだろうが」
「なんです、OGIとは」
「は、ジェネレーションギャップだな。当たり前すぎて、俺が幼児のころに死語になった情報処理用語さ。オンリー・グラフィカル・インターフェース。コンピュータをプログラミングするのに、アイコンのツールしか使わない開発環境さ」
「確かにそれは当たり前ですが。では、端末、昔のいわゆるPCって、どうやって作成していたのです?」
「プログラミング言語、ってものがあったのさ。小面倒くさいことに英文を直接いちいちコンピュータに入力して使っていた。おまけにこいつはさらにその前。神話的電算機の時代の、機械語だ。0と1ですべてのコンピュータは支配されている」
 それからペオは、機械語プログラミングを開始した。十六進数で入力する。こんなコード打つなんて一部の古典計算機マニアだけだな。二十世紀半ばのシロモノだ。
 手はあるのだ。この遥かに技術の進んだ電算機を、二十世紀末のシロモノに置き換える。原始的というのも、馬鹿にはできない。
 オフィスから紙が消えるとされていた二十世紀末の人からすれば信じられないが、二十一世紀半ばの時代においてすら、もっとも信用でき保守性に優れている記録媒体は紙だった。高価でかさばり場所を取る上、自然破壊、資源の無駄と非難もあったが。
 ペオはシステムの構築を急いだ。一バイトずつ十六進数で入力しているとしても、ダイレクトにCPUに介入しているのだから、速度的には十分だ。
 見つけた! 制御プログラム帯域。これさえ操れれば。これをシントのコンピュータのエミュレーターに潜り込ませ、どのCPUのプログラム列なのかデータ列なのか分析すれば、前時代のC言語のような高級言語に早代わりだ。さらに意味のわからない変数用語、関数用語を解読し、スペル・チェッカーで全語並び替えれば翻訳の完成だ。
 加えて付属のツールでOGI仕様にすれば、誰にでも扱える。しかしここではたと困った。参ったね! 言語がPascalとは。扱えないわけではないが、Cが有能だがルーズなプレイボーイとするなら、Pascalは真面目で潔癖なお嬢様だ。うわ、コンパイル超速い! 総統もソングもラドゥルも困惑気味だ。
 ペオは軽く言った。「冒涜には当たらない。暗号に巨大な素数を使われては、エラトステネスのふるいにも限界があるが、その信仰も崩れる時だ」
「なにをしようというのです?」
 総統の不安げな声に、ペオは平易に答えていた。「電脳世界、その中枢OSをクラックする……叛徒どもの利用する部分だけ」
「そんなことが可能と? 電脳世界には万全のセキュリティがあるのに」
「たしかに過去なら、32バイトの暗号を解読するだけで防衛省情報局連中すら四苦八苦したもんだ。当時では、256バイトの素数暗号すら、古臭いものになりかけていたんだぜ。まさに量子コンピュータが実現しそうだったのだから。宇宙の始まりから終わりまでを計算し尽くし得る」
「過去とは? それに防衛省?」
「それは俺も混乱するから後で。当面の問題を解く。さすが、シントの都ともなると、四通八達しているものだ。施設装備は完璧、後は俺の腕だけだな」
「そんな能力が……それが貴女の魔力なのですか」
「は? これは技術だよ。専用の加算階乗式ハックキーでパスワードを弄くれば、8ビットの256乗の数値なんて一瞬ですべて打ち出してしまう」
「まさか! 数学的に可能でも、セキュリティは甘くないはず」
「だから、パスワードにはセキュリティ用に禁止コードが含まれる。一万種にひとつくらいの割合で、そのキーを打ち込んだ人を使用不能にしてしまうのだ。これがあるから、ハッキング行為は幾万倍も難しくなっている。さらには一億種にひとつくらいの割合で、非常コードも。これは打ち込んだ人をハッカーとみなし登録してしまう。かつ、一兆種にひとつくらいの自爆コードも。これは、ハッカーが類稀に有能だと判断されたときに使用され、データファイル流出そのものを無効にしてしまう。一方で管理者側は、再起動させるのも思いのままさ。その自爆コードを入力すれば、すべてかたがつく」
「一兆分の一の確率だなんて。そんなキーを探し出せるのですか?」
「確かに、それだけを考えれば地球の海の中からたった一個の貝殻を探し出すようなもんさ。だが電脳世界は圧倒的に広い。8ビットの256乗という言葉では言い表せない天文学的データからでの一兆分の一なら。子供が潮干狩りするより、簡単さ。問題は回りの砂粒の中の地雷。禁止コードに触れないように、それに辿り着くことだがね」
 しゃべりながらもペオはキーボードを弾き続け、自らの奥底に眠る電脳世界のソースコードが甦ってくるのを感じていた。
 OSは分かっている。後は自分で即興でハックキーを操作することだ。アルゴリズムは単純だ。いけるいける! しかしペオの目論みは頓挫された。シントの警備モニターに映る、巨大な王国騎士。ティルス?! なぜ彼がこの街へ……
「事情は知っている、女性文官を精神誘導で魅了して聞き出した」ティルスは通信回線を通じ、平易に言ってのける。「この建物の叛徒どもは始末した。殺すまでもない、たかだか二十名ばかり。魔力で全員気絶させた。しかし我は困った事態に陥っている……ハガリド王が生きていたのだ」
 ソングはらしくもなく、叫んでいた。「ハガリド王が生きている?! あり得ない、確かに騎竜ごと撃墜したはず、それも数十機の戦闘機の機銃掃射で。仮に被弾しなかったとしても、墜死は免れないはず。脱出用のパラシュートを開いたらしき気配もないし。不死身か、なにかの間違いか」
「いまとなっては明らかです」総統は淡々と告げた。「ハガリド王は不死、それこそ彼の持つ魔力なのです」
 ソングは尋ねた。「ティルス、王国騎士よ、貴方は国王の地位を僭称してしまったはず。これは許されることでしょうか」
「それはわからぬが、国王陛下からの任務は変わらない。魔人としてのソング、貴女を王国へ帰順させること、それが条件だ」
「他に案は無かったのですか」
「叶わねば……シント総統を抹殺すること」断言する王国騎士。
 ソングは無言でびくり、と身じろぎした。
 ティルスは陰鬱に言った。「我の精神操作を受ければ、誰であれ反共和国、順王国に洗脳するのも容易。が、止めておく。戦場は空で公平に決着をつけよう……ではさらばだ」ティルスは騎竜ブレードの下へ歩み寄っていった。
「借りを作ってしまいましたね……」ソングは物憂げに深々と息を吐いた。「総統閣下……いかがなさいます?」
「戦乱の世を鎮めることがシントの大義です」総統も苦しげだった。「どうにか戦禍を抑える道を……しかしわたしの能力でもそこまでの道程は未知数なのです」
 なんてことだ! ペオは悲嘆していた。頑迷固陋で話にならない。戦禍は止めようがないのか? 竜攘虎搏な激戦となること自明……