「入会の儀式は終わったようだね」
 突然、背後から間延びした声を掛けられた。気配にまるで気付かなかった。自分は馬鹿だが、感は良いと信じていたのに。見れば、自分より三、四歳年上に見える病的にまで痩せこけた長身の少年だ。人の良さそうな穏やかな黒眼、栄養状態が悪いのかぼさぼさの長い茶髪……が、草地に無防備に寝ころんでいた。衣服はかなり野外の汚れに染まっている。
 少女……ペオはそいつに問う。「なんの話だ?」
「魔人になる儀式。きみは魔名を得られたはず。世界に全民衆が何百万何千万人いたって、魔名を得た魔人は百人もいない。きみは魔力を得たんだ。ペオース・ウィンか」
「俺の名が? それに魔力って……」戸惑うように、少女は問い返す。
 少年は温和な様子で、クスクスと笑っている。事態を楽しんでいるようだ。少年は忠告した。「この場を離れた方がいい。兵隊に採りたてられたくなければね。王国、キュートは戦力として魔人を集めている。一方で、それと緊張高まるシント共和国は魔法を忌み嫌い、魔人を排除するとさ。いずれに捕まっても、末路は悲惨だよ」
 旧都、新都。王国、共和国……それは何も知らないペオにとってはなんの意味もなさなかった。「ずいぶんと事を知っているのだな、おまえ、なんなんだ?」
「ラドゥル、いわば魔人仲間さ。地方領主の徴兵から逃げているんだ。銃の残弾があまり無くてね、僕はここに隠れているよ。さあ、きみは行きたまえ。僕と一緒だと余計なとばっちりを受けるぞ」
 勝手な事を言って! 魔人だと? この俺が。ペオは悪態を吐くや、もう日の落ちる平原を見回した。魔力といっても、自分に魔法など使えるはずは無い。
 さわやかな西からの風に、水の匂いがした。川があるな、それにいまの季節は春だ。どうする。水脈を下れば、人里はあるはず。
 向かうべきか避けるべきか。太陽に向かって進むというのも、視界的にどうも分が悪い。しかし、風上に向かうのは逃避行としては自然だ。ペオはラドゥルと別れ、川へ向かい歩き出した。こうして運命の歯車は回り出した。以下暗転直下し……
  
 ペオは生水とは初めての経験と感じたが、澄んだ小川の水を両手ですくいのどを潤すと、これからのことを案じていた。自分は何も知らない……記憶喪失ってやつか? もっともいままで、そんなさえた人生を歩んでいた気はしないが。
 折しも、夕闇が覆っていた。幸い満月の晴天、まったく周囲が見えなくなるわけではない。川下を辿っていく。やはり、人のいないところでは話にならない。山にこもって世捨て人になる気など、いくら人間関係に無頓着な自分でも考えられなかった。それに、興味もある。土手の自然堤防を歩む。このさきに橋が掛かっているのに、ペオは気付いた。すると道があるな。これを辿れば!
 しかし橋元に差しかかったときだった。五人の薄汚い男が突如現れ、ペオを取り囲んだ。訝しいな。ラドなんとかという少年が話していた、徴兵ってやつか?
 そいつらは野卑な態度を恥じるそぶりもなく、へらへらと笑っていた。「そこの餓鬼、おとなしくついてきな。そうすりゃ俺たち売り物に傷を付けるような真似はしねえよ。ま、おまえみたいなものでも叩けば売れるか。物好きはいるからな」
 ぎょっとする。売り物……拉致か? 人買いかこいつら。
 ペオは即決した。さっと左手首に忍ばせておいた、得物を取り出す。人買いどもが反応する前に、ペオは一人に飛びかかり攻撃していた。手の甲を切り裂かれ、その男は、ひっと悲鳴を上げた。鮮血が散った。
 得物は異国の決闘用短剣だ。刀身こそ細く短いものの素材は上質で、鋭利な刃を持つ。短すぎ、敵の胸や腹を貫くことすらまずできない。衣服の上から切るのもほとんど無理だ。致命傷を与えるとしたら首筋を裂くか内手首を深く断つくらいか。
 だから狙うのは、手や腕だった。残酷だが、顔面も悪くない。むき出しの皮膚を切りつける。苦痛を与え威圧し、敵を殺さずにして追い払うのが主眼だ。なぜかペオは、この得物の扱いに関してだけは熟練している自分を知っていた。
 返す刀で、事態が呑みこめていないもう一人に切りかかる。鼻っ面をざっくりと抉って骨を断っていた。朱に染まる。後三人!
 人買いどもは、こんな子供から反撃を受けるなど思いもしていなかったのであろう、怯んでいた。ペオは余裕の構えでまるで退く素振りを見せなかった。もっとも機会があり次第、全力で突っ走って逃げるつもりではいたが。そのときだ。
 パパパパパパパッッッ!!!   離れた所から炸裂音が響いた。軽機関銃が発砲する音だ。ペオは背筋に冷たいものを感じたが、どこも傷付いてはいなかった。
 撃たれたのは人買いどもだった。全員、足元をさんざんに撃ち抜かれていた。致命傷ではないが、次々と地面に倒れ込む。
 ペオは『恩人』を見て、驚いた。硝煙立ち昇るサブマシンガンを構えて立っているのは、ペオとさして変わらないくらいの体格の、二十歳ほどの女性だった。それも大変な美貌の持ち主だ。惜しむらくは小柄過ぎることくらいか。軍服、それも士官の制服を身につけている。その衣さえ着替え瀟洒に構えれば、一顧傾城といってもいい。
「殺しは私の趣味ではないのです」女士官は物柔らかにいう。「魔人よ、去りなさい。我がシントは余所者は受け入れない。が、魔名は聞いておきたい。私はソング。貴女は?」
 何も知らないペオには厳しい誰何だが、恩の手前答えないわけにはいかなかった。「俺の名はペオース・ウィンというらしいが?」
「ペオースだと!? おまけにウィン……」ソングは、魔名に驚愕している様子だった。
 ペオは問い返した。「どうかしたのか?」
「貴女を殺さないで良かったと思ったのです。始末するよう命令されていましたが」
「君命に受けざるところあり、だな」ペオはなぜかこんな文句を引用していた。「俺はただの餓鬼だ。殺してなんになる。もっとも生かしてもなんにもならないかもだがな」
「貴女のナイフ使いの技、見事でした。たとえ相手が人間のくずだろうと、余計な殺しをしないのは称賛に値する」
「ご立派な士官様が、俺なんかによく言うな。魔名とやらに関係があるのか?」
「無論です。なぜ貴女はそれを知らないのです?」
「俺はなにも知らないんだ」
 ソングは息を呑み、姿勢を正すや淡々と静かに発言した。「ペオースはかつて世界を滅ぼしかけた魔王の名で。ウィンはそれを阻止した英雄の名前なのです」
  
 これは、古代ゲルマンのアルファベット、ルーン文字が再興され広められて久しい時代の物語である。ペオースとは、運命のサイコロを転がす振り壺。もっとも未知のルーンであった。ルーン文字には魔力が潜む。魔名を受けしものは、世界の運命すら動かせる。
 もっともその名を受け継いだペオ自身は、自らの運命さえ知る由がなかった。