涼平は金星北極付近上空から防護装備と剣を装備するや、小さなウィングで飛び降りた。気分爽快に分厚い大気内を滑空する。人が自由に空を舞える金星は、悪くないな。上空気温の寒さもあまりないし。
 ? HMDに一人の敵兵反応が映し出された。こんな上空で戦う気か? 敵の武装にはっとする。あれは直人お手製のシャウト! なぜここに……恵に預けた一丁だけではなかったのか! やっかいだな……剣戟の効果をことごとく防いでしまう。
 とにかく中距離帯まで間合いを詰め、剣を振り払う。炎の衝撃波の奔流が敵を包み込んだ。しかし、おそらくダメージは無いな。シャウトがカバーしている。敵からも衝撃波が迫った。
 !? 剣を払われ吹っ飛ばされてしまった、ヤバい! そうか、小学生でもわかる梃子の原理だ。長い剣は、それだけ比例して力を受けるからな。涼平は即座に空手の構えを取った。すると、相手もシャウトを懐にしまった。打撃武器としてなら使えたのに、対等の条件で勝負する気か……
 まさか空中で格闘技とはね。だが……こいつはなんなんだ? まったく隙も迷いも無い! 百七十センチほどのやや小柄で細身、肉体は非力そうだが、技と意志兼ね備えた練達したまさに『戦士』だ……ヘルメット越しには、自分と同じ年ほどの青年に思えるが?
 この度量たるや、天才時雨にも劣らない! とにかく急速接近飛行し、浴びせ蹴りを繰り出してみる。
 失策だった、派手な技なので隙が多すぎるのだ。素早い機動で背後を取られた。手脚が絡みつく。しまった、絞め技とは! 動きを封じられた、このままでは地面に叩きつけられる!
 吹き荒れる風圧に流されつつ、成す術なく落ちていく。いくら金星の自然落下速度は遅いとは言っても、重傷は避けられない。
 地上まで数十メートルの高度で、敵は絞め技を解いた。敵には殺意はなかったのか。無事風に乗り軟着陸に成功する。完敗だな、自分も未熟なものだ。姿勢を正し一礼した。「命助けて頂き感謝します」
「きみはナンバー4、検崎涼平だな。俺は0。神無月真琴だ」
「0?……ほんとうにいるのかどうか、疑問に思っていたが」
「警告に来た。金星の内乱に加担する行為は、内政干渉に当たる。ジェイルバードは手を引くべきだ。SDFも同様だ。もし彼らが金星に留まるというのなら、きみに命令する、SDFと交戦して退けることを」
 涼平は一瞬ためらったが、答えた。「同胞同士戦うのは人間の本分ではないことを失念していた。だが、SDFには恩を受けたのに……」
「だからせめて贈り物を持ってきた。『希望の公式』。人間は宇宙を超えた存在だと」
「希望の公式? 貴方が導いたのは絶望の公式と聞いたが」
「物理学は百億光年彼方広がり、その果ての外でなお数百万倍する宇宙の森羅万象を公平に司る。公式は定まっている。しかし命ある生き物はこうはいかない。未来を変えるのは意志の力」
「意志の力……むかし誰かから聞いたな。真理からか……」涼平は反駁していた。彼女、直人と交際しているらしいが。
 神無月は話し続ける。「この宇宙はユニバース(単一の宇宙)ではない。マルチバースなのだ。異なった物理法則に支配される別宇宙が存在する。同じ物理法則で働く、並行世界だって無数にある。文字通り無限に」
「極論ではあるが、ある程度は理解納得できる話だ。いままでのいきさつを鑑みれば」
「なんでもありさ。宇宙によってはどんな願いもそのまんま叶う、魔法のような世界すら存在するはず。これはそう無理な夢物語ではない。人が、動物が、意のままに自分の身体を動かせるのだって、当たり前に思えて不思議なことなのだからな」
「すべては主の御心のままに、だな」涼平は語っていた。
「きみは神を信じるのか」神無月は問う。
「神は自らの姿に似せ、人を作った。人は自らの姿に似せ、AIを。AIに心がないというのなら、神は人に心はないと思っているだろう。するとどんな厄災を地上に振り撒いても平気でいられる理屈だ。聖書の教えによると、厄災を起こすのは悪魔などではなく、ほとんどみな神なのだ。はは、危険な考えに陥っているな、クリスチャンなのに」
「宗教、か。俺には無縁だが。『神無月』だからな」
「キリスト本来の教えなんて、百分の一も残ってはいない。聖書その他の文献は、キリストの死後数百年に渡り、弟子を名乗る第三者がでっちあげた。俺はだからクロスやロザリオは持たないし、十字架もマリア像も崇拝しない。偶像崇拝の禁止が本来の教えだからな。キリストを神の子とも思わない。三位一体なんてこじつけだ」
「それは俺の専門外だが、『神はサイコロを振らない』との説は破られた」
「アインシュタイン?」
 神無月は語り始めた。
『……
 簡単な話だ。相対性理論を解釈するだけでいい。小難しい数式なんていらない。
 時間で割ってみれば、無限に引き伸ばせるという理屈さ。ブラックホールに吸い込まれたからといって、瞬時に消え失せるわけではない。吸い込まれたものにとっては一瞬だろうが、その外から見ると。事象の水平線内では、時間は無限に引き延ばされる。
 内部では空間も無限に圧縮される。これは無限に引き伸ばされるのと同義だ。というか、光の速度を超えるわけだから、時間を逆行する。ブラックホールは『蒸発する』とされているが、事実はこの時間遡行現象を指すのではないか。
 ブラックホールは、その実在を数式によって予言され、観測によって立証された。そのほんらいの在り方を考えると、従来の数式で導かれる、原子そのものが圧縮され凝縮された超質量は、なにかおかしい。それが周囲のあらゆるものを吸い込みつづけているのだとすれば、吸い込まれた物質は、無限に時間が引き延ばされるわけだから、光も脱出できない水面下で現在も、静止した状態を保っているはずなんだ。空間が光を超える速さで収縮もしくは膨張しているとすれば、時間はその空間内では巡行に見えるが。外から見ると、事実上光により観測するのは不可能だが、逆行しているはずだ。
 宇宙の果てを追いかけると、ここでもパラドックスに行き当たる。亜光速で進むと、相対的に回りの時空は縮み、密となる。一見、無としか思えないほどの波長≒無限大、周波数≒0だった超赤外線が、波長≒0、周波数≒無限大の超短波となり、やがては確固とした物質となる。
 光、つまりエネルギーと質量は等価だから。それを過ぎれば、無であったはずの虚空がブラックホールそのものとなる。現在の宇宙は、そのどこの地点でも、ブラックホールに吸い込まれているといってよい。輻射熱が絶対零度+2度もあれば十分だ。宇宙は反転したブラックホールの球面内にある。
 これが宇宙に斥力が働く、光より速くしかも加速しながら宇宙が広がっている理由だ。
……』
 理解できなかったが、涼平は静聴していた。
 神無月は締めくくった。「以上、本当のような嘘の話」
「おまえ!」
「いや、単なる仮説の一つだよ。俺は数学専門なんで、実証物理学は不得手なんだ」
 くつくつと笑う、ジェイルバードのマスターに涼平は戸惑っていた。