「基地ったって、こんなものか」涼平は言い捨てていた。
 恵に案内されたのは、金星の大地を掘削してできたいわば防空壕だった。簡素なテーブルに椅子があるだけの八畳間ほどの殺風景な一室。部屋にも構内にもところどころステンレス製らしい支柱がしてあるだけだ。もっとも、このステンレスも単一結晶素材としたら、比類ない強度を誇るな。窮屈だったヘルメットを脱ぎ去り、コートの胸元を緩め、一息吐く。
 恵は優しく言った。「ごめんなさいね、せせこましいところで。それより、何ミリがお好みかしら? ここは酸素分圧が地球並なのよね」
 ? ……涼平は、テーブルの上に灰皿が乗っているのをいままで見落としていた。口調を砕く。「ありがとう。最強の辛口を」
「では、これね」恵は言うや、てっきり涼平は壁だと思っていた扉を開き、積み重なったタバコの箱の山から、なにやら異様に大きい金属製の箱を取り出した。開けると、大きな葉巻が入っていることに涼平は驚いた。涼平はタバコ、それも一番強いロングピースを愛喫していたが、葉巻は吸ったことがなかった。
「ああ、貰うよ」そう言って、口にくわえる。? 恵はくすくす笑っていた。
「初めてなのね。涼平、前後逆よ。葉巻は切断された葉っぱの見えている口からでなければ、吸えないわ」言いつつ、恵はライターを渡してくれた。
 涼平は葉巻を改めて観察した。たしかに、いま口をつけた方は、フィルターではなく、葉巻の葉そのものがカバーになっている。これでは吸えないな。逆にしてくわえ、火を点ける。久々の一服。非常に美味かった。しかしやはり恵は悪戯っぽく笑っている。
「涼平、葉巻の煙はね、肺には吸い込まないものなのよ。口の中でゆっくり燻らせるものなの」
「そうなのか、知らなかった。そうさ、初めて吸うものでね……だがこいつは美味いな、香りからして違う。一本幾らだい?」
「これは安物だけど、二千円するわよ」
「普通の紙巻きタバコ四箱位か! 葉巻一本でタバコ八十本分……」
「だけどたっぷり三十分は吸えるわよ。ゆっくりなら一時間近く」言いながら、自分は六ミリのミントに火を点ける恵だった。
 こんな贅沢は地上では借金まみれだった自分にはめったにないな。涼平はゆったりと堪能した。「では、説明して貰おうか。この金星の争いに関して」
「私たちは勝手に、百日戦争と命名したわ。金星は恒久的には局地にしか住めない。なのに、北と南で対立して争っているのよ。金星の一日は、地球での百数日に及ぶ。その期間、侵略経度のルートはくるりと一回転するって理屈よ。取り残された兵士は飢えや乾きだけでなく、致命的な太陽の放射熱か氷点下の冬に置き去りにされ、野たれ死ぬ。でもそうして孤立した兵士を救えば? 私たちに協力してくれる同志になってくれるものも多い」
「同志? そう簡単に異国の混成部隊になんて、入ってくれるものかな。自分の生まれた国を捨ててまで……」
「白人種の北は文明はやや進んでいるけど、上層部が腐敗しているからね。兵士になんかにされるのは、貧しい生い立ちのあぶれ者だけだし。士官は高級官僚の子弟がなるけど、決して前線へは出ない典型的なタカ派、それも最低のチキンホークね」
「は、聞き捨てならないな」
「黒人種の南は自然に恵まれている点では豊かだけど人口が決定的に少なくて、侵略の対象とされてきた。温和で戦争を嫌悪するのは良いんだけど、自ら戦おうとするものはいない。もっとも戦争を主張する扇動家なんかは即排除粛清されるハト派のお国柄」
「すると北の兵士を救い、南の民を守る必要があるな」
「問題は、互いに互いを同族とみなしていないことよ。私たちだってケダモノか化け物扱いされるわ。まあそんなだから、凌辱行為はまず起こらないのだけれど」
「さしずめモンゴロイドの俺たちは、両者のハーフ扱いされるな」
「その通りなのよ。で、納得はいただけたかしら?」
「ならば恵さん、シフトランチャーを使えば事は容易だ。あれは攻撃兵器ではない。目標を設定座標へシフトしてしまう機器なのだから」
「そうだったのですか!? では事実上、私たちの被害はゼロ」
 涼平はうなずいた。「俺はいつでもどこでも、シフトランチャーでドラゴンフライへ戻れる。どんな危険な任務でも、おそらくは絶対絶命の瞬時には助かる。なんなりと協力しよう」
 ここでピクシーが現れた。その姿は涼平にしか見えず、声も涼平にしか聞こえないが。手振りで、電話をしている物まねを恵に見せる。「ピクシー、どうした?」
「涼平、妙な通信をキャッチしたわ。特定のアドレスではなく、単に『110』か『119』だけなの。これって、日本での警察か消防署への緊急電話番号じゃない」
「なんだそりゃ。日本人がいるのか? それも緊急番号とは困っているらしいな、ピクシー、繋いでくれないか?」
 さっそくコールに応答があった。男の涙声。(もしもし? 聞こえますか、助けてよう!)
「どうされました、事件か事故か、怪我人か」
(日本人だね! 嗚呼、言葉が通じて良かったよう! 僕外国語話せないもん。僕は時雨。ここはどこ? まるで魔法かSFの世界だなあ~)
「はい、貴方も日本人ですか、なぜここへ?」
(外国人から逃げたの。どうやら僕ちゃんを奴隷にしようとしていたから)
 金星の北の原住民にか……。ここの基地も北極側だしな。
 涼平はピクシーがいるから、容易に現地の言葉を通訳して貰える。辞書五冊分くらいの未知の異国語とはいえ、ピクシーにとっては余技、インストールは瞬時だった。
「ピクシー、もし可能なら相手の座標を算出してくれ」
「調べ済みよ。この部屋にシフトさせるの?」
「ああ、頼む」
 五秒と待たずに、部屋に小柄で小太りな中学生くらいの少年が現れた。恵が声を掛け、敬礼する。「時雨大佐!」
 涼平は驚いていた。大佐だと、このチビデブの餓鬼が。聞き違いか、いや、恵の対応からしてもそれはない。
 時雨と名乗った少年は、ゆかにへたりこんだ。「助かった。ああ参ったなあ、恵ちゃん」
「大佐がご無事であれば、なによりです」
「でも獲物は取り逃がしちゃったよ」
「無理を言わないでください、大佐こそかけがえがありませんから。榴弾使ってまで暴風雨に突っ込むなんて無茶を」
 ん? ではさきほど恵たちが追っていたのは、この少年だったのか? まあ一典だって十八で元帥だ。十三歳の大佐がいたって文句は言えない。
「でも、クェルガイストは僕専用に開発されたんだもん。嫌でもけじめはつけないとね」時雨は言い張っている。
 クェルガイスト? 俺が任務で、火星方面にシフトさせた最新鋭戦闘機ではないか。そういえば、その後どうなったかは聞いていなかったな。一典が元帥辞めるなんて言い出したから。
 ったくモラルに欠けるジェイルバードはこれだからな……「クェルガイストはどうしたんだ?」
 恵がはっと言った。「何故か爆散したかと思われていたのが、自動航法で本来の任地であるこの金星の荒野に不時着していた。時雨大佐は無謀にもそれを単身回収に向かわれて……途上、いまの季節の航路的に北の領内に踏み込むから、北との交戦もあったのに、大佐は一人で切り抜けていた」
「それでこの少年大佐を追いかけていたのか」
「クェルガイストをシフトさせたのは涼平くん、貴方のシフトランチャーだったのね。では……」
 涼平は任意を表した。「シフトランチャーを使えば回収は容易い。この基地のどこへ運び込めばいいかな?」