ファンタジーでは、良く「光」と「闇」の戦いが描かれていますね。その延長線上の話題です。

 創作上のわたしの分身キャラは、「横島直人」です。

 「横島」は、「邪」から来ています()

 「直人」は、「ニュートラル」のニュート、をもじってつけました。

 ニュートラルとは、中立、という意味ですが。とある思想だと、その両端に「ロウ」「カオス」があります。つまり、

 ロウ-ニュートラル-カオス

 という並びです。どれが良い悪い、というものではありません。

 ロウ、とは「秩序」を表します。

 カオス、とはその反対の「混沌」です。

 ロウ、ニュートラル、カオスの概念はファンタジーRPGの世界では広く用いられています。ロウとカオスは敵同士であり、両陣営に別れて戦いを繰り広げているのです。

 小説の指輪物語をモデルにした、世界初のテーブルトークRPGが「ダンジョンズ&ドラゴンズ」です。ダンジョンとは地下迷宮のことであり、そこに潜むドラゴンのようなモンスターと戦って名声と財宝を手に入れる……これがそのゲームの概要です。それを元におそらく初めて作られたパソコンRPGが、『ウィザードリィ』です。さらにそれは亜流化されていき。

 ここで『真・女神転生』というテレビゲームの話になります。マイナーなのですが、一部のマニアの熱狂的な支持を得ています。最初に発売されたのは92年。バブル崩壊のころですね。オウムのような偏執的な新興宗教が流行し、世間に世紀末思想が広まっていた時代です。

 ノストラダムスの大予言。「1999年に恐怖の大王がやってきて世界が滅ぶ」、なんてうわさがありました。

いまどきの少年少女は知らないでしょうけれど、それが無ければ映画もアニメも世紀末を舞台にした作品はなかったかも。まあ、世界が終わる説は他にもいろいろ吹聴されているのですけどね。

 核戦争・エネルギー枯渇・温暖化・自然破壊・オゾンホール・酸性雨……。現在の社会問題は枚挙に暇がありません。

 「真・女神転生」の舞台は、まさにそんな世紀末の東京。平凡な生活をしている少年が主人公です。身近に悪魔(モンスター)が現れ、少年は「神と悪魔」、「秩序と混沌」を巡る戦いに巻き込まれていきます。

 「ロウ・秩序側とカオス・混沌側」の戦いというわけです。

 混沌、とは一口に説明するのが難しい設定です。一面としては無秩序、アウトローとも呼べます。無法者が犯罪を行う、とすると図式としては簡単なのですが、混沌、とは必ずしもそうではありません。混沌イコール邪悪、ではないのです。混沌の良い一面として、自由があります。個人の自由と権利というのは民主主義社会においていちばん重要なはずです。

 「混沌」に対立するのが、「秩序」です。法律とかがそうなのですが。秩序イコール正義・善良では、ないのです。秩序の一面の悪い点として、独善、があります。自分を正しいと信じるあまり、他の意見、対立する正義をないがしろにするような、独りよがりの善行です。現実の歴史的にも、ありましたよね。十字軍のような宗教戦争。中世ヨーロッパ(それもわりと近世)に頻発した、「魔女狩り」。否、このゲーム後の戦争だって。

 ロウ(神)の側は、神に忠実な特別に選ばれた限られた人数だけの人間を集めて、平和な「千年王国」を築こうとしています。そこの人間は法と秩序に忠実ですから、争いなんて起こりませんよね。しかし問題なのは。その「神と法」に従わない人間(圧倒的大多数)を、皆殺しにしてしまうということなのです。ゲームではコメ軍+斬死丹+偽善的な左〇過激派みたいな設定になっています。

 カオス(悪魔)の側は、これに反対しています。独善的な神の法に縛られず、自由に生きようとする人たちです。かれらは絶望的な世紀末の時代を、力で勝ち抜いて生き延びようとしています。強いものが生き残る弱肉強食の世界。そう、こちらの問題は、力の無い弱者は見殺しにするというものなのです。クーデターを起こす、割腹自殺した某作家のような右〇軍国主義の自衛官が出てきます。

 主人公の少年はこの二大勢力の戦い、対立する両極端な主義主張の葛藤の中で苦悩します。プレイヤーは、ロウとカオス、どちらの考えも選ぶことができます。

 しかし、別の選択もできるのです。それが、ニュートラルです。ニュートラルはどちらの勢力にも与せず、救いの無い孤独な戦いを続けます。結論としては、神にも悪魔にも服従せず、どちらの側の仲間も大切にし。例え敗れて破滅するとしてもせめて人間らしく生きる、それがニュートラルです。悪く言うと、優柔不断で日和見、なのですが。それでもニュートラルの選択は、ユーザープレイヤーの大多数の支持を集めています。ある意味もっとも救いの在る道かもしれません。