・邪教へようこそ!
わたしは宗教は信じませんが。ですが人生の意味について思うのです。私見としては神なんて、いない。天国も地獄もない。宇宙が人間に対し、友好的であるわけもないし、敵対的であるわけでもない。
だから人生に、生まれついての意味なんてない。でも。だからみんな生きがいと喜び、幸せを探して生きるのでしょう。
新興宗教の勧誘を受けたとき「幸福は人類みな平等であるべきだ」という話を聞きました。
そうなれば大変結構ですね。でも、勧誘そのものは失笑でしたよ。幸福の平等を実現するには、不幸な人を幸福にするべきであって、幸福な人を不幸にするのではないでしょう。
それなのに、幸福と不幸はプラスマイナス0である、とするから話しはとんでもなくなります。幸福な人の幸福を削って、不幸な人に与えるという事になりますからね。ああ、もちろん募金とか寄付は賛成ですけどね。献血とかも。うまく言えませんが、それは話が違います。幸福は、金では買えないものでしょう? ま、金があって生活が安定していれば概ね幸せですが。
だいたい新興宗教では「わたしたちは恵まれていませんよね、社会からもっと恵み(ようするにお金)を受けるべきです」ときて続いて「社会的弱者から見れば、あなたはとても恵まれています。われわれに寄進すべきです」なんてなるんですよねえ。
「幸福と不幸はプラスマイナス0」、これを別の視点で捕らえている人もいるようです。人はどんな人生を送るのであれ、すべての他人と対等の幸せなんだ、と。こっちの考えは、個人の戒めとして持つなら、前者よりは良いでしょう。金持ちに生まれても、必ずしも内面が充実してない……とかの考えですね。でも、なんの罪もなく幼くして死んでしまう子に、当てはまるものでしょうか。
もう一点、宗教の悪い点を指摘します。前世の業を問う因果論です。現世で不幸な人は、前世で悪いことをしたという話です。体が不自由に生まれたのは前世で他人を傷つけたからとか、現世での金持ちは、前世で偉人だったとか。こんなことを信じるなんて、傲慢過ぎる思い上がりだと感じるのは、わたしだけでしょうか。
幸福と不幸はプラスマイナス0である。これについて、わたしが読んだある小説から引用します。鷹がネズミを捕らえ、食べるとき。鷹の食べるというちっぽけな楽しみと、ネズミの死ぬという苦痛が釣り合うものでしょうか。
しかしたとえ、総量としては幸福より不幸が圧倒的に大きいとしても、この世には確かに愛情も喜びも存在します。そのことの方が、それを守ることの方がはるかに大切です、というのですが。
食べるということは、決してちっぽけな喜びではない、とする意見も当然あるでしょう。この世の生き物は、生きるためには他の生き物(動物、植物を問わず)を殺して食さなければならない宿命を帯びています。その点では、食べるという行為は命を繋ぐ上で、至上の喜びであり、死の苦しみと釣り合うという見方もできます。しかし、人間、とくに裕福な人は食べるという行為を、軽視しているように思えます。
「食事を得たことを神に感謝するのは、欺瞞だ。食べるために殺した生き物に祈るのが、誠実というものだ」とあるのですが。どう思われますか。
「幸福と不幸はプラスマイナス0」良く信じている人がいますが、宇宙にそんな法則ありませんよ。だから幸福は増やせるし、不幸は減らせるはずですよ。
……
・人間の業
映画「タイタニック」見ました? 豪華客船が沈没し、大勢が亡くなるあれです。
問題。なぜ、タイタニックは沈んだか?
答え。主人公の美青年俳優が、女を「ナンパ」したからですよ。
実話をもとにした話しに不謹慎ですが。あまりにクサい映画なもので「焚いたニンニク」って呼ばれてますね。
しかしです。映画は感動的な話なのに、実話は必ずしもそうでないらしいのです。一等客の金持ちはほぼ100%助かっている(助からなかったのは、自らの意志で船に残った紳士だけ)のに、三等客の男は全滅、女性だって過半数が亡くなっていた。
つまり船員が人間の命を差別していたのですよ、無理に避難船に乗れないように、銃を突きつけて。でもその船員だって、大半が船と沈みましたが。
ではこの船員は、自己犠牲の献身の功で天国に行ったか。それとも客を見殺しにしたことで、地獄に墜ちたのか?
人間は生きていれば、どちらが正しいかわからないような、道徳的問題に直面するものです。
……
・天国や地獄って?
はっきり断言します。別に他人の信じる神や死後の世界の存在は否定しませんが、人間を生前の行いで振り分けるような天国や地獄なんて、絶対にありませんよ。善悪とは相対的なものであり、白黒はっきりつけられるものではないのです。そんなこと、神とやらが全知全能だって不可能です。何故って『全知全能』ということ自体が、矛盾した前提なのですから。
まして人間が人の善悪を決めるなんてことがかなうと思うのは、傲慢な思い上がりです。
死後の世界。天国とか地獄なんてものは、おそらく存在しないでしょう。でも死んだからといって、すべてが無になってしまうという確証も無い。
人間が。自分は自分であると自覚する、中心の部分。魂とか心とか言われる部分は、なぜ存在するかなんて誰にもわからないのです。たしかにコンピューターの、人工知能と呼ばれるものはある。それには「感情」さえ表現できるものすら、ある。しかしそれはパラメーターをいじる操作の結果であり、その感情を機械が自覚している、保証はないのです。機械に心が宿るものでしょうか。
なにかを感じ取っていた、心、の部分。死んでしまえば……脳も、機能しなくなる。ものを考えることはできなくなる。身体が死ねば、身体を動かせないだけではなく、五感も失われる。でも自分が自分であった魂の部分は、肉体の死と、関係ないかもしれない。魂は死後も存在し続け、なにも感じないなにも考えない永遠の眠り。そのずっと平穏の中で、憩うのかもしれない。
……
・脱宗教論
キリストとかブッダって、現在生きていたら大変なカリスマになっていた、なんて意見ありますね。でもいまの文化の進んだ時代だったらみんなに埋没して、たんなるお人好しの青年で終わるかもしれない。なんたって開明的な、人間愛に満ちた偉人なのですから。
キリストは禁欲的ではなく、大飯喰いの大酒呑みだった。ブッダは苦行に反対して、誰でも救われる悟りに至った。
キリスト教にしたって仏教にしたって、開祖は人格者です。それらの宗教の悪名は、他の後世の人間が宗教を曲解して起こした場合が大半です。
キリスト教では、最初偶像崇拝を禁止していた。なのに後の人がクロスだのマリア像など作り、あげくの果てに免罪符なんて作って神の許しを金で売った。
そうしたものにすがって、他の教徒を迫害する。それって、キリストの意志ですか? キリストは神と同一視されますが、本人はそんなこと望んでいなかったのでは? 後の人が強引に、三位一体の理屈なんてこじつけて、神格化しちゃったんですよ。
クルセイダーしかりですが、仏教でも。死んでも極楽浄土に行けるからと、戦国時代に利用された。生前の行いで極楽地獄がわかれるなんて教えができたのは、本来諸行無常の「現世」をより良く生きるためだったはずなのに。神などではなく人間が死後仏になるなんて考えも、本来は人間賛歌です。あくまで現実の世界をより良くするためのはず。
ブッダは決して、自分が人に崇められることを理由に仏教を作ったはずではありません。
だから新興宗教で、開祖を神格化したり崇めたりするのは欺瞞なんですよ。
こうした宗教が起こったのは大昔です。まあ宗教の歴史は長いので、キリスト教も仏教も、新しい方に入りますが。
その過去の時代はいずれも混沌としていて。戦乱、飢餓、犯罪と暴力が世の中を支配して、法の力は弱かった。士族が弱いものから食べ物を分捕るなんてのは名誉とされたし、結婚は力ずくでするのが当たり前だった。そんな時代に立ち上がって、人間たちをまとめて救うための教えが、宗教だった。
宗教とは神聖不可侵というより、道徳規範なのです。敬うのは良いですが、崇めるのはなにかおかしい。
ごたごたした神話とかって、過去の訓話として必要だっただけで、その当時にできた精一杯の文化手段に過ぎなかった。現在文明社会にあふれるメディアで、良い映画を見て感動するのと変わりません。
宗教を盲信してはいけません。脱!宗教。
(了)