・邪教の見分けかた

 わたしは以前、とある新興宗教の勧誘を受けたことがあります。(相手はもと同級生だったが、同窓会の打ち合わせをしたいというから会ったのに……しばいたろか!)

 それに大変感銘を受けました。「世の中に、こんな邪教があったのか!」目からウロコです。そんなもん信じてるヤツがいるから、いつまでも世の中停滞しているんだ。

 明らかに間違っている点から入りましょう。

「知ってる? 中学の校長先生も教頭先生も亡くなったんだよ(まだ若かったのに)」勧誘の切り出しはこんな感じでした。続いてこうです。「大震災、すごかったよね。でも、わたしたちの信者はひとりも亡くなっていないんだよ」

 わかります? まず、身近な人の不慮の死をネタに不安感をあおぐ。次いで大災害で命の危険をささやく。こうした点が「卑怯」なことすら、信者は考えないのでしょう。で、自分の宗教を信仰すれば助かると勧誘するのです(それも助かる理由が、神とか運命に守られるからとかで、災害や不幸を社会活動で防げるからではない!)。

 自分たちだけ助かればいいのか! 人格を疑います。まあかれらは、「いつか世界のすべての人が同じ真理を信仰すれば、みんな救われる」と信じているから、疑問を抱かないのでしょう。

 「いつか」なんて永遠に来ませんよ。人はそれぞれ考えが違い、一つの真理の元に全人類が集うなんてことはありえないのです。(この点はいくつも後述します)

 まあ仮にですね。世界がその宗教で統一されたとしましょう。それでも人の世に、不幸は襲います。絶対に信者は助かるなんてほざいていても、いつか人間は死にます。不慮の死もあるでしょう。そのときにかれらはなんと抗弁するのでしょうか。「犠牲者は信心が足りなかった」とか、「死んでも魂は救われた」そんな浅薄な答えしか、言えないのではないですか。

 こうした欺瞞がまず一点。次に移ります。

勧誘員「他の宗教を信仰することは、一番の罪なんだよ。地獄へ堕ちるよ」

 いいですか? その他の宗教たちの「ここが悪い」なんて明確な点、全然指摘できないのにコレですよ(他の宗教ではもっとリベラルで、より深い信仰の理解に繋がるなら加えて他の教えを信じてもいい、とするものだってあるのですよ)。

 許せません。本人に悪意はないのでしょうが、これは死に値します。信仰の自由、ひいては言論の自由の統制です。その今日の自由をかちえるために、いかに多くが戦いそして犠牲となったか。歴史を紐解けばわかるはずです。

 言論の自由を奪う、というのは民主主義社会にとって一番の罪のはずです。もし言論の自由がなくても良い、というなら国会も裁判所もなくていい、ということではないですか。

 ですがこの「誤り」をしている宗教が実に多い。この偏見のせいで、世界は宗教戦争が絶えません。十字軍なんて明らかに侵略、犯罪ではないですか。

 まあ歴史的に見れば、アジアや中東からヨーロッパへ侵略を繰り返していた時代の方が多いのですけどね。

 まともな宗教は、他の宗教を弾圧したりしません。

 キリスト教のカトリックとプロテスタントは歩み寄りの姿勢を見せていますし、ユダヤ教も他の宗教は批判しません。

イスラムだって、テロ活動を行うような過激派以外は、他の宗教を認めています。というかイスラム圏に入るには、なにかの宗教を信仰しているのが条件です。無神論者は入れません。

 最後の爆弾。

勧誘員「いずれ日本は○○国と戦争になるよ。これは避けられないことなの」

 共通の敵を作り味方の結束を誘う、政治指導者が良く使う手ですね。「その困難を乗り切るために、日本人は一つの真理のもと団結しなければいけない」という理屈です。なのに話を聴いても、戦争しなければいけない本質の件は出ない。政治・経済・倫理のいさかいとか過去の遺恨はあるのにそれを無視し一方的に脅威だけ言いふらす。

だったらなんで殺し合わなければならないのか。単に宗教の「末法思想」を曲解しただけの様子です。相手の国民だって、命と魂があることをわかっているのですかね。とんでもないなあ……。

わたし「その教え、全部信じてるの?(どこか間違いない?)」

勧誘員「全部信じてるよ」

 なんで疑問を抱かないのでしょうね。確かに基本的には、良い宗教なのかも。抱いている理想、世の中を良くしたいという点は立派なはずです。だからといって悪い点もあることを見逃し「盲信」しているのがいけない。

 こんな風に自由意思で考えをすることを止めたとき、人は間違いを犯すものです。自分が正しい事をしていると信じている人間は、歯止めが効きません。要するに、地下鉄サリン事件を招いた「オウム真理教」になってしまいます。自分が間違うつもりはなくても、上が暴走したときに気づくものでしょうか。

 オウム信者だって事件のときは、「自分は絶対に正しい」と信じ、疑わなかったはずなのです。

 この当たり前の事実を知らない、考えない人はあまりに多い。世に犯罪者は多々ありますが、「悪いことをしている」と承知の上で犯罪を犯すのが普通の人間なのに。盲信者はそうではない。

 これに気づかない人は。テレビで残酷な犯罪を見て犯人の心情を理解せず、「馬鹿が」とか「頭おかしい」とか決めつけるその姿勢こそ危ない。

 いかがでしたか? ここで取り上げた新興宗教は、マスコミで話題になるような犯罪的な事は一切していません。財産を巻き上げるような寄進も要求しないし、怪しげな壺や印鑑を高額で売ってもいない。教義を忠実に実行すれば、福祉慈善に役立つかもです。それでも「おかしい、受け入れられない」という点はこれほどあるのです。

……

・一見正しく見えるけど?

 ではかれらの理想について批判します。だいたいの宗教団体が、似たような間違いをしているのですが。

 ようするに全世界に自分たちの宗教が広がり、世界が一つの真理で統一されるという理想です。そうすると。人間たちは仲良くなり、戦争も争いも犯罪も起きず、なんの不満もない平和になる……。誰でも聞いたことはあるでしょう。一見、正しいようですね。

 しかしどうでしょうか。例として家の近くに産廃処理場を建造するとなると多くの人は嫌がるでしょう。ダム建設などは特に有名ですね。人が生活するのに必要不可欠なものなのに、反対意見は絶えないのです。これには、良い解決策、結論は思いつきません。

 いやでも、受け入れなければならないことはあります。ですがそれを当然の義務として強制するのも問題です。こうした軋轢は当然起こるのです。

 法治国家になぜ裁判があるか? 自明です。正義とは常に相対的であり、話し合いで解決しなければいけないからです。法律が杓子定規で絶対で、訴訟されたら裁判抜きで罰せられる、そんな世界に住みたいですか?

 平和、文化を守る活動を世界的に統合された一つの組織による、という意見は理想でもありますが、同時に危険です。この独善については一例を記します。あるアメリカの大作家が、その著作に理想の世界を描いているのですが、ある日本の大作家はそれを批判しているのです。理想の世界では、すべての人間の意識がテレパシーのようなもので繋がって、すべての人間がすべての人間の喜びや悲しみを共有でき、犯罪もなくなるというものなのですが。しかしこれには、面従腹背という奴隷の自由さえない、最悪の全体主義との評があるのです。

 人々の意見、主義主張は様々です。その人間をまとめて国家を機能させるのは、並大抵ではないはずです。ですから健全な民主主義社会では、むしろ人々の不満の声が絶えないものです。

 すべての国民が不満を言わない愛国者ばかりの国、ではなにか怪しいですよ。でもありますね、そんな国。その国実情は、政府批判や他国の賛成をすると収容所に送られるのですから。その某国、民主主義と名乗っているのが笑止千万ですね。

 要点は国家違えども宗教違えども、互いに認めあい分かり合うことです。大切なのは相互理解であると思います。逆に注意しなければならないのは、独善に陥ることです。つまり一つの真理なんかには、不可能なことなのです。