・原爆上等!
某悪の枢軸国の核兵器保有疑惑が問題になって久しいですが。それを押しつけている欧米等って、核兵器持っているんですよね。それも数では桁違いに多数。
こうした欺瞞は見逃すわけにはいきません。不公平です、なくすなら対等にしなければ。
繰り返しますがどんなに言い繕っても、戦争なんて悪なんですよ。「核兵器はいらない」「化学・細菌兵器根絶」「地雷は臆病者の兵器だ」なんて言ってもですね。じゃあなんで銃は許されるのか、という話になってしまいます。
もしそれを考慮しないで、単に敵に使われるのだけを嫌がるなら欺瞞、偽善か独善です。それなら「核兵器は戦争を抑止する」という意見の方にわたしなら賛成しますね。
戦争とはそういうものなのです。ジュネーブ条約がありますが、戦争そのものを禁止しないで、ルールを設けて戦争すること自体おかしいです。兵士だけ殺されて民間人は助かるというのも、どこか歪んでいます。戦争自体防がなければ。
原爆上等! 断固阻止しましょう。
いつか大手をふって、「兵器なんてすべていらない」と呼べる世界にしたいものです。
……
・つねに心に葛藤を
むかしの有名戦争映画の一コマですが。敵兵を正確に狙撃して殺しながら、「主よ、あなたに背きました」と祈る兵士――汝殺すなかれ――。
戦争に対してはこのくらいの矜持が欲しいですね。どんなに言い訳しても戦争は悪である、許されない行為である、それを知りつつも自身が地獄に落ちることを覚悟で護るべきものを守る……
そこまでの覚悟があれば、その兵士個人は許せます。単に敵国が悪だから倒して当然なんだ、などと殺戮を繰り返す輩は許せませんが。
だからわたしなんかにはとうてい無理ですけどね。それに平和を愛する人に戦いを押し付ける人間は最低と思っています。
世の中善悪は常に相対的、人の意見はいろいろですから、白黒なんてはっきりつけるのは独善ですよ。清廉潔白は美徳ではありますが、自分が潔癖だからってなんでも正しいと思い込むのは危険です。だからまず、わたしのこのエッセイも疑ってみてください(笑)。
あるていど譲歩し、清濁合わせ飲む度量が必要です。だから自分の意志を常に大切に、相手の考えもよく聞いて開明的な視線で判断しなければ。
昔のおもしろい先生で「贈収賄するような政治家に投票しては駄目だ」と言う人がいました。ここまでは正論ですが。「賄賂はもらっていいから、投票は別の候補者にしろ」クラス爆笑。賛成です。腐敗した政治家の得票を減らすだけでなく資金も奪えるから一石二鳥。その先生に賛辞を送りたい。
戦争について簡単に結論は出せませんね。軍隊の存在も、現在ではやむないでしょう。世界の国家はどこの国も一枚岩でなく、国粋のタカ派主戦論者もハト派のテロリストもいますから。良くも悪くも。
人間も動物です。生きるためには、他の生き物を殺し食さねばなりません。ベジタリアンもいますけど、植物だって生きています。生き物はそうした宿命があるし、同族相手すら縄張り争いが起こるものですから。
ですが人間には文化があります。戦争は完全に無くせないにしても、平和的に防ぐことはできるはずです。
ちなみにわたしは世界的に統一された政府を考えていません。現在のいささか欺瞞に満ちてはいますが国連の方がまだ統一政府(地球連邦?)に道義的に勝ると信じるのです。異なる価値観の共存と調和こそがあるべき姿かと。世界を一つにする、なんて思想こそが戦争を呼ぶのです。
……
・宗教観
わたしは自分を無神論者と自覚しています。無宗教というのとも違うのです。一応仏教の最多数派、浄土真宗だし、神道の神棚も祭ってあればクリスマス、つまりキリストの生誕祭も祝います。
それでも人間個人の願望を叶えてくれるような御都合主義の神など存在しないと信じるのです。否、人間は願望を抱くことができるだけ、祝福されています。夢の中ではなんでも叶うのだから。
永遠の命なんて信じないですが、永遠の魂はおそらく信じています。死後の世界は信じなくても、死んで無になるとも信じない。
永久の別れとはいうけれど、きっとまた逢えると信じている。すべてが虚無であり無限であり一つであると……すべてが嘘であり真実であると……
……
・頭の体操
ここで息抜きに入ります。
中学一年の数学で真っ先に習う、「負の数」マイナスの概念。最初に学校で習ったとき、それまで塾にも通っていなかったわたしは間違いました。どう間違ったのかというと、
「0-1=-9」
と計算してしまったのです。どう感じますか? まるで話にならない馬鹿な考えだと? 説明します。
「10-1=9」
だから同様に考えて、上記の様にしたのです。たしかにこれは誤りです。しかしそれはあくまで流通している数学の「方式から外れて」いるだけのことであり、「0-1=-9」としても、計算はできるのです。以降、
「0-2=-8」
「0-3=-7」
…… と続け、
「0-10=-90」
とでもして桁を増やせば表記できないことはありません。もちろんこんなやり方では、四則演算すらめちゃくちゃややこしくなりますが。
こんな計算をしたときは、教師からもクラスの奴等からも馬鹿にされました。
しかしです。この考え方でもちゃんと計算できる実例があるのです。それは、コンピューターです。コンピューターは内部で整数を扱うとき、正と負を区別しないのです。2進数(0と1しかない)で4ケタ、
「1111」
とあるとき、それは10進数で「+15」を意味するのか、「-1」を意味するのか区別はつきません。ようするに、スポーツの得点表に例えられます。数字の書いてある布を得点ごとにぺらぺらまくっていくあれです。15まですべてまくり終わると、次はまた0に戻る。ですが0から逆にめくると、マイナスなどにならず15となる。これと同じです。そう、コンピューターでは
「0000-0001=1111」
となるのです。
固定観念はいけないという、実例でした。
……
・文化と相互理解
「会話とは文化の中の文化である」
わたしの知人が作った論文の抜粋です。
賛成ですが、付け足したい意見があります。言葉は大切ですが、同時に{コミュニケーションの一つの手段に過ぎない}ということです。
言うまでもなく、ろうあ者は手話を、盲人は点字を使います。しかし、ろう者については、つらい状況があったと言います。ろう学校では、唇を読むことを勉強させられ、逆に手話を使うことを厳しく禁じていたというのです。ろう者が他の人と同じ社会に出るためだそうですが、これこそ傲慢な独善の一例です。
日本が戦前占領下植民地の住民に、現地の言葉を話すことを禁じ日本語を勉強させたという話と、だぶってしまうのはわたしだけでしょうか。障がい者に対しては、健康なひとの方が譲歩する、それがマナーでしょう。
わたしは少しだけ、情報処理、情報理論を学びました。それで{言葉はコミュニケーションの一つの手段に過ぎない}ことを知ったのですが。言葉、会話の他の文化も、大切ですよね。一例として、音楽は世界の共通言語、とも言いますし。
ところで最近は、視覚・聴覚・身体の障がい者用の情報端末システムがいろいろと発明されています。知的・精神疾患者には、他者とのコミュニケーションが上手く取れない人も多いですが、いまの通信技術は新しい形の意志伝達の機会を与えてくれます。コンピューターが障がい者の福音となれば良いですね。
それでは忘れてはならない日に、世界平和を祈って。
(了)