激しい雨が、竜の全身に叩き付けられていた。低空を滑るように飛ぶこのわたし、シザーズに。翼を力強く打ちながら、その紅い眼で鬱々とした空を睨んだ。夜の九時の雷雨。眼前は闇に閉ざされ、視界などほんの先しかわからない。だが航路は記憶済みだ。
どんよりとした空。黒灰色の雲が、のしかかるように周囲にそびえる。雷光がときおり辺りを照らし出す。次いで耳をつんざく雷鳴。もはや、わたしはその轟音を気にしなくなっていた。
わたしは高度ほんの五〇メートルほどの所を、緩やかに上下する地形にそってなめらかに飛んでいた。時速は百二十キロといったところだ。新都心の郊外。地面には雑木林やたんぼが広がる。ときおり小さな白い灯りがぽつぽつ見える。民家の立ち並ぶ区域だ。シザーズはそれを避けていた。
わたしは脱走者だ。生みの親の企業、日本中央バイオニクスを裏切って逃げているのだ。わたしは誇り高いことを重ねて矜持とする。礼儀正しく名誉を尊ぶことを。道理なくして行動などしない。人間の道具、などという境遇に甘んじるわたしではないのだ。
ドラグーン・プロジェクト。遺伝子操作により誕生したモンスターを兵器として使用するその魔の計画において、わたしシザーズは最高傑作とされていた。戦闘機の空中戦の基本戦法のことを、ハサミという。敵と戦うとき。高速で飛行しながら、左右に旋回を繰り返して敵の後ろを取り合うと、その軌跡がハサミの動きそっくりになる。シザーズ。英語で『ハサミ』を意味するその名は、シザーズの空中戦能力から付けられた名誉あるコードネームなのだ。
まもなく目的地上空へ到達する。ターゲットの名は新庄誠治。わたしの生みの親。わたしの……お父さん?
真理は自分がまた夢を見ていることに気付いた。
わたし、ドラゴンになっている。シザーズの記憶?
ズン! 激しい衝撃と鋭い痛みが、わたしの腕、ではなくありもしない翼に走った。撃たれた!? 眼下を確認する。なにも異変は見当たらない。銃撃ならば銃火が見えるはず。射撃の際の閃光が。どこにもそれが見当たらないとは。これって、シュリークの弾? 翼の一点に次々と命中する。痛い、翼が動かせない、落ちる!
視界が暗転した。どこからか声がする。直人?
「……夜戦にとくに有効だ。真っ暗闇の中で普通の銃を使えば、銃弾の閃光と爆音で目耳は麻痺する。こいつは違う。プラスチックは防熱素材。ただしタンクの耐圧力は、限度がある。炎にまかれたら、爆発するぞ。それが難点だが、完全に機械式のエアガンであり、電子機器は無い。単純な作りで頑丈、故障しにくい。通常のエアガンとは、圧縮ガスタンクの強度が比較にならない。これなら、ドラゴンだって落とせる。攻撃しようと急降下してきた瞬間に、弾丸を一点集中で片翼に当てる。竜は体勢を崩して地面へ激突だ。そんな危険な戦法を取れる戦士ならね。涼平、おまえなら……」
暗闇の中、謎めいた声が続いていた。こんどは涼平だ。
「……主が自らの手で、六千年前に一週間かけて、世界を作り上げた。これはひとまず、不問にしよう。しかしそうでなくても、確率論的な問題なんだ。直人」涼平は説明していた。「地上に生命が誕生してから数十億年。しかし、いまのような多彩な生態系を作るには、それでも不十分なんだ。進化の流れを自然に任せれば、惑星どころか、宇宙そのものが生まれてから死ぬまでの時間を掛けても、この地上のような複雑な生命なんてできっこない。だから。神の意志が、働いているんだ」
「{人は自らの姿に似せ、神を作りあげた}、と」直人は一笑にふした。「確かに地球が、奇跡の星であることは認める。涼平のいうように、確率的な意味で、ね。生物の進化は、偶然に任されている。言ってしまえば、奇形として生まれた生物の内、その変化がたまたまプラスに働いた生物が進化した、と言えるんだ。コンピューターのプログラムで言えば、手違いで起こったバグが偶然にも、もともと予定されていたものよりプラスに働いた、なんてことが起こったようなものだね。確かに、すごい偶然なんだ」
「偶然、か。{神はサイコロを振らない}。二十世紀最も偉大な物理学者も言っているだろ」
「は、おれに言わせれば、サイコロが神を振るんだよ」
「なんたる不遜な!」
「ああ、いいよ。おれもおまえと話が合うとは思っていなかった。でも、どうしようかねえ、この人工知能、コウの扱い」
「おまえと組まされたのが、俺の不運だ」
「神と運命を呪うかね?」
「いや、話を続けるぞ。文化を語るには、まず神学から、だろ」
「それはおまえだけだ、ゲーティアの鍵を持つ似非クリスチャン。客観的な、意見を求めよう。まず、本当に確率的に生命の誕生しうる割合はどうであるか……オーダーで計るよ。時間はまず、十億年。一世代を一年、とすると世代は十億。これは、控えめな数字だよ。大抵の生き物は、一年も生きないんだから。それから地球上の生物の総数を、千兆と計算する。これもかなり控えめな数字……すると、十億×千兆で……。それから、いまの地上のような生態系を築くに必要な突然変異の確率を割り出せばいい」
「コウにシミュレートさせるんだな、やってみよう」
(不確定な要素が多すぎ、わたしには結論は出せない。資料は検索しよう。一例として、地球上は放射性物質の存在が適度に合ったことが上げられる。進化を加速した一因だろう。まったくなければ突然変異の起こる可能性は激減し、進化は進まない。多過ぎれば癌などの致命的な病気を招き、これもまた進化は途絶する。いえることは、進化は加速するという事実だ。地質学上の生命の進化のサイクルが物語っている。初めに誕生した単細胞生物が、アメーバに進化するまでだけで数十億年。土台が完成するまでに、それだけかかったんだ。しかしひとたび多細胞生物になれば、進化は加速している。ヒトデのような単純多細胞生物から、魚類が誕生するまでには三億年。それから地上で生活できる両生類が現れるまで、数千万年しかかかっていない。原人から人への進化など、ほんの数十万年だ)
この文句には憶えがある。わたしは夢の中で、直人から渡されたデータチップの記録を見ているのだと気付いた。とすれば、この『夢』は操れる!
わたしは目覚めた。夢の中で。自室のベッドに横たわる自分を感じる。そこから意識だけ覚醒し、部屋を見回す。薄暗い、どこか歪んだわたしの記憶だけの部屋。え! 会いたくもない顔だが、直人がいた。直人は皮肉な笑みを見せている。
「こうしてコウは完成したというわけさ。そのコウが暴走し未来図を作り出した。銘記しろ、閉じた時間の輪の中におれたちはいる! 1999年から2666年までの時の鎖に。これを打開するのが、創立者ザ・マスター率いる十二人の魔法使い、『ジェイルバード』。時の監獄の中から飛び立とうとする鳥、竜の眷属」
意味はわからなかったが、とにかく言い放つ。「あなた! 人の意識に勝手に入らないでよ」
「せっかく忠告に来たってのに。中世ヨーロッパの拷問器具みたいな女だな」
「アイアンメイデン?」
即答するわたしに、直人は腹を抱えて笑った。爆笑している。「なんで一発でわかるの。そう、きみはお堅い燃えない鉄の処女アイアンメイデン。セラミック・タングステン・ダイヤモンドのハニカムハイブリッド重装甲おまけに精神障壁ATフィールドを持っている。もう無敵。ガンダムにも勝てる」
「黙れ、このヲタク!」わたしは激怒した。「シュリークで撃ち抜いてあげようか!?」
「おれなんて足元にも及ばない女ヲタクのくせに。自分で自分のこと、萌萌だなんていわないほうがいいぜ。ま、おまえは見た目性格からして萌だからな。ずんどうなプロポーション、毒を吐く口。見つめられると男が石になるね、バジリスク」
どっと血が上った。こんな恥ずかしい思いするなんて。「あなたと涼平さんが親友だなんて、信じられないわ」
「腐れ縁でね。出会いは中学一年一学期の中間テストだったな。涼平から、「俺、おまえと同じレベルなのか」と言われた。好意的なライバル意識を持たれたんだ。涼平はクラスでトップ、おれは三位くらいだったかな。いまじゃ考えもつかないけど」
「あなたが?」訝しげに問う。いじめにより落ちこぼれたとは聞いたけど。
「昔のおれは馬鹿みたいなプライドがあってね、高校に通うのが恥ずかしかった。偏差値56なんてね。劣等感の塊で、退学したよ」
「56じゃあ悪くないじゃない、わたしだって60ちょっとよ」
「そんなのは、ほんらいのおれじゃないってね。それまでは、不良の気持ちなんて考えたこともなかったが、おれはグレたさ。何度もコンビニの酒くすねて隠れて飲んだ。そのころ一見真面目に見えるおれが万引きなどと、誰も気付かなかった。あるときなんか、ちょいと恨みのあるヤツのカバンに酒瓶を忍ばせてやった。そいつ、補導されて停学喰らったぜ。平和の無為の中に我慢ができない自分がいた。腐った世の中、腐りきった自分。憎しみに覆い尽くされた。おれは求めた。すべてを破壊し尽くす力を。それで目覚めたのさ、能力に。いまのきみ同様」
「能力……」
「それをいうならあいつもさ」直人の表情が翳った。「同じく、中1の初め、涼平と同じクラスだったときだ。クラスに男子生徒たち五、六人から、ひどいいじめを受けている女の子がいたんだ。彼女は異臭がした。薬品くさかった。肌の色も妙に青白かった。においを馬鹿にされ、容姿を侮辱され。泣くのを嘲笑されてはこづきまわされていた。その子を涼平はかばったんだ。一人で割って入って、いじめをしてたやつの内、三人ほど殴り飛ばしてやった。そうしたら大騒ぎでね、もちろんだけど」
「だったら涼平はヒーローじゃないの」
「だがハッピーエンドとはいかなかった。殴られたやつらは所詮卑怯者で、涼平一人相手に喧嘩する度胸も無い。殴り返さなかったんだ。教師がのりこんできたが、これは涼平の暴力事件として片づけられた。理由はどうあれ、先に手を出した方が悪いってね」
「そんなのってないわ! 女の子の方はどうなったの?」
「彼女も問題児扱いされていたからな。休校したよ。おまけにその子は白血病患者だった。休校してほんの数ヵ月後、彼女は死んだ」直人の顔は憎しみに歪んでいる。「その子はいじめられてはいても、少しでもみんなと同じように学校にいたかったんだろうな。涼平は罪の意識に駆られている。学校側はいじめの事実を隠蔽し、涼平の傷害事件だけを問題とし涼平に責任を押し付けた。他の生徒は内申書に響くから、と見て見ぬふりさ」
「涼平さんの罪じゃないのに」
「おれたちの中学は、とても荒んでいてね。高校側から、そこの生徒は取りたくない、なんて言われていた場所だった。クラスの半数が不良、教師連中までが腐ってた。不祥事を伏せて、できるだけ事を小さくすまそうとする。大勢のいじめっこ全員を相手にするより、自己主張も満足にできないいじめの対象者の口を封じるのさ。その後涼平は高校へも進まず。働きながら独学し大検に合格し、某国立大学へ奨学生として進学した。ジェイルバードへの参加により、休学しているけどね」
「ジェイルバード……涼平さんは、どうしようというの?」
「恥辱を受けた戦士は死ぬためだけに存在する。過去の汚名をそそぐためにな」
「答えになってないわよ!」
「あいにくと、おれは戦士ではない。おまえを守る義理も無い。おまえにはせいぜい、おれが逃げ延びるために……うわっ?! あああああ!!!」
? 直人の突然の悲鳴とともに、夢が壊れていくのを感じた。眠りから覚めようとしているのに気付いた。