ゴッ…ォッ……。

 木々の葉を揺する外からの軽い突風の音に、ふと気づいた。自室のベッドの上で、わたしは今日二度目の目覚めを迎えていた。部屋は明るい。外は晴天らしく、太陽の光が差し込んでいる。

 時計を見ると、昼間の十一時。少し休むつもりが、結構眠っていたな。

 ベッドから降りる。まだ夢を見ているように現実感が無いけど……記憶は偽れないな。ドラゴン、剣崎涼平。牙と血。ちょっと、頭がくらくらする。

 わたしは着替えを済ませた。さすがに、ふだん着をまとう。ブラウスにスカート。

 部屋から出ようと、ドアを開ける。あれ……ゆかに紙切れが落ちている。手紙だ。

(ヤボ用ができた、俺は行く。真理は家から出るな。ただし平静にしていろ、いつも通りの生活をするんだ。誰か訪ねてきても隠れたりするなよ、怪しまれるからな)

 涼平さん、どこか行っちゃんたんだ。胸が不安で重くなる。でも。「いっしょにいたかった」その想いに自分でびっくりする。男の人に対してこんな気持ちになるの、久しぶりだ。ひょっとしてわたし、涼平さんのことが……。

 台所に下りて一人、遅い朝食を取る。朝には少し重いけど、シチュー。牛乳を入れて伸ばして、熱すぎない程度に暖める。後はロールパンくらいでいいか。

 小さめの器に入れて、スプーンですする。今日は妙にしょっぱく感じる。胃が少し重い。食べながら、テレビをつけてみた。

 いつもと変わらない、平和な番組。芸能人がおいしいラーメン屋を紹介していた。チャンネルを回す。ニュースがやっていたが、これもありきたりな事件ばかりで、ドラゴンの事なんておくびにも出されない。

 なんだか、昨夜のことが嘘に思えてきた。なにかの悪質ないたずらに引っかかっただけなのかも。ドラゴンも作り物で、涼平さんはエキストラの役者。わたしが大金持ちの娘だ、なんてのもなにか嘘っぽいなあ。

 ぼんやりと、テレビを見つめる。

(……次のニュースです。インサイダー取引により不正に利益を得たとして、ある会社員が逮捕されました。容疑者は新庄誠治五十一歳……)

 お父さん? なによそれ! わたしはテレビの前に駆け寄った。

(新庄容疑者は日本中央バイオニクスの株主ですが、企業の情報を不正に流用して、多額の現金を得ていたもようです。新庄容疑者は容疑を否認していますが、検察当局の調査では……)

 身体が震えた。涼平さんの言っていたこと、ほんとうだったんだ。わたし、なにかとんでもないことに巻き込まれているみたい。

 わたしは、それから食い入るようにテレビを見ていた。しかし、お父さんの事件はほんの小さく扱われただけで、もう報道されなかった。三十分くらい、たっただろうか。

 トントン、と玄関でノックがした。インターホンがあるのに、気がつかない人かな。だとしたら見知らぬ人。不安だったけど、玄関に行ってみた。

 わたしは家に一人だから当然、戸締まりはしてある。?! あれ、涼平さんどうやって出たんだろう。カギもドアチェーンも閉めてある。いまはそれどころじゃないけど。

「ど…」声がかすれた。あわててツバを飲み込んでもう一度言った。「どなたですか?」

「お嬢さん……聞いてほしい」低い、でも静かな落ち着いた声。涼平ではない。

 聞き覚えのある声。あのドラゴンが現れたとき。(逃げろ……死ぬのはわたしだけでいい)。こう言っていた男の声だ。助かったんだ。なら、信用できる人よね。涼平さんの仲間かな。わたしはドアを半分開けた。

 チェーン越しに話そうとする。が、相手は離れた所にいるらしく姿は見えなかった。というか、外は妙に暗い。さっきまで晴天だと思っていたのに。

 なにか変だ。もう一度聞く。「どなた?」

「スカベンジャーが負傷した。助けようと思うなら、ついてきて欲しい」

「スカベンジャー?」

生物の本で読んだな、『死肉喰らい』。そんな不吉な名前って?

「知らないのか。剣崎涼平のことだ」

「涼平さんが怪我?!」ぎくり、とする。助けなくちゃいけない、わたしだって。

 でもこんな話ってあるだろうか。なにか仕組まれているように感じる。家から出るな、と言われているし。どうしよう。

「来るかどうかは、きみの意志に任せる。わたしの名は」と、ここで相手は言葉を強めた。「シザーズ。きみたちの言うドラゴンだ」

 昨夜の魔物! わたしはその場に凍りついた。いまになって、外が暗いわけがわかった。巨大な魔物が玄関に影を落としているのだ!

 全身に鋭い痺れが駆け抜ける。逃げたいけど、怖い。動けない。なにも言うこともできなかった。

「来て欲しい。わたしでは手当ては無理なのだ。文字通り、手がないわたしには」声は穏やかに続ける。「罠だと思っているのだろう。わたしはやろうと思えば、きみを無理に連れていくこともできるのだ。決してそんなことはしない。それを考えてくれ」

「でも……」

「スカベンジャー涼平は、いまではわたしのマスターなのだ。才能、勇気。申し分ない」シザーズは真面目な口調だ。「それも。彼がわたしと戦った理由はただひとつ。お嬢さん、きみの身を守りたかったからだけだ。彼は、一人で戦うことを決意したのだからな。日本中央バイオニクスのドラグーン・プロジェクトで、最強と呼ばれたこのシザーズと。そして堕落した憎むべき敵、日中バイオと」

 わたしは黙って聞いていたけど、シザーズの話は半分も理解できなかった。呆然として、わけがわからない。

 ドゥン!  突然、背後から爆音が轟いた。

 家の裏側が、爆発したみたい。ズンという振動も響いてきた。次いで、がらがらと壁が崩れる音。

 なに?!  耳を押さえて、縮こまる。

「隠れてろ!」シザーズは怒鳴った。

 バッ!  風を切る音。

 ドラゴンが翼を打つ音だと気づいた。シザーズは空に昇ったようだ。わたしは玄関からリビングの方に戻った。壊れたのはお風呂場らしい……燃えてるの? 嫌な匂いが漂ってきた。

 どうやらお風呂場、完全に燃え上がっている。ガスが漏れているんだ。隠れていろ、なんていってもこれじゃあ……。消すこともできない、逃げることもできないよ。

 あわてて、お風呂場に通じる扉を閉めた。一時しのぎだけど、煙をふせがなくては。火災による死者の大半って、炎そのものより煙を吸い込むことって聞いた。

 なすすべなく、リビングに閉じこもる。

 窓から外の様子を伺うけど、なにもわからない。今朝見た通りの壊された庭に、晴天の穏やかな空。向かいに広がる畑にも、なにも異常はない。

 煙はもう、目で白く見えるくらいまで部屋に入ってきていた。扉の小さな隙を抜けているんだ。ガムテープがあれば目張りできるけど……そんなものふだん使わないから、外の物置だよ。

 咳込む。目が痛い。一秒一秒が、異常に長く感じる。たしか一酸化炭素って、下から溜るのよね。もう入ってきているのだろうか。吸い込みでもしたら、倒れて……絶対に助からないよ。

 誰か助けて! これって、天罰なの? わたしむかし、自殺したいなんて思ったことが何回もあったから。でも、いまは死にたくないの。自分勝手だけどいまは幸せだから!

 涙が出ていた。煙のせい。わたし、二度と泣かないって誓ったんだもん。わたしはリビングの窓にくっついて、外に飛び出そうかと迷っていた。そのときだ。

 バン!  大きな音を立てて、空から庭に何か落ちてきた。

 昨夜見たのと同じ、巨大なドラゴン! 体長は家くらいあり、黒銀の金属めいた、光沢ある鱗に覆われた身体。真昼の日差しを受けて、妙にグロテスクに映る。

 ドラゴンは、首がなかった。ぴくりとも動かない。真っ赤な血がどくどくと溢れ、庭の白い玉砂利を染めていく。死んでいる……シザーズ、死んじゃったの?!

 ガッ! ガン! また、家に大きな音が響いた。みしみしと柱がきしむ。また家が壊されている! 涼平もシザーズもいない。誰も助けにはこられない。煙はどんどん立ち込め、部屋向こうもかすんで見えない。

 家は、どんどん壊されている。壁が崩れる大きな音が、リビングに近づいてきている。

 ドッ…バムッ……。

 何かが倒れる音がしたと思うと、黒い煙の固まりがどっと入り込んできた。この部屋の扉まで、敵が迫っている!

 絶体絶命! 頭に血が昇った。なにも考えられないまま、わたしは壁にあったステレオのCDラックからCDをひっつかんで、煙の来る方向に向かってぶん投げていた。

「ただでは死なないから!」なんだか、そんなことを叫んだように思う。

 煙が吹き抜けた。冷たい風が入ってくる。煙が晴れると、そこにはわたしを凝視する一対の巨大な瞳……。巨大なハ虫類の親戚は、身じろぎせず投げつけられたCDを顔に受けていた。