事件は、昼の一時を回ったころに起こった。一典と逢香は順調に飛んでいた。行程の六割ほどを終えた開始から五時間あまり。上空2000メートルの無難な航路。
ぼくも少し疲れてきたころだ。逢香さん、無理しないでね。
エアレースは続いている。携帯端末からの情報によると、現在の先頭を飛ぶのは剣崎という人。でもそれは完全にエアレース向きのトイ・プレーンで、アクロバットについてはポイントが低い。
総合的には、光ちゃんがトップかもしれない。先頭から四機目を飛んでいる。優勝して欲しいなあ。
ぼくたちのローカストは、十二番目を飛んでいる。位置的には、光ちゃんとほんの五十キロくらいしか違わない目と鼻の先にいるけど、それは直線距離での話。ぼくたちはまだチェックポイントを通過していないから、百キロ以上は差を付けられているんだ。
しかし、勝負はまだわからない。トップ目争いで混乱が起これば、まだまだぼくにだって勝機はある。ローカストは馬力も航続力もあるから、まさにダークホース、駆け引きが勝負だ。これはがんばりどころだ。入賞して、真理さんに喜んでもらうんだ。
南東に向かって飛ぶローカストが、網走の上空を通り過ぎたときだった。あれ……。
モニターグラスに映っていたレーダー情報が、消えちゃったよ。他の機体、気象、地形情報が落ちちゃった。空港管制塔なにかあったのかなあ。ま、いいや。電話回線を使ったナビで代用しよ。
と。とんでもない情報が飛び込んできた。
「釧路空港管制塔、システムダウン?」逢香さんは問い返した。
(ああ、間違いない)と、通話相手の魔言くん。
あ~っ、故障か。最近の空港のレーダー通信と管制システムは、数百万機というトイ・プレーンをすべて管理できるように複雑化されているもんね。いつ、こんな事態になるか。ぼくも心配していたんだよね。
(聞いてくれ。これはサイバーテロだ!)魔言くんは強い口調で断言した。
さいばあてろ? なんだそりゃ。ぼく意味わかんない。
「スペードの陰謀?」と、逢香さん。
(逆だ。俺と同じことを考えたヤツがいた、ということだ)
「魔言、それって……」逢香さんは震える緊張した声だ。
(スペードを……軍事産業を敵視するのは、いくらでもあるはず。軍事的緊張の続く、某国かも知れない。日本の経済的な台頭を許さない国もあるだろう。それとも戦争を否定するハト派かもしれない)
??? お二人さん、なに話しているの?
(狙いは、日野光の機体「頼人」だ! それを事故に追い込んで、スペードを失墜させようとしているとしか思えない。何故ならいま、彼女の機体は釧路湿原に向けて低空飛行していて……)
ええっ! 光ちゃんが? それはヤバいよ。軍がどうたらはわからないけど。トランスポンダ(誘導用の電波)が使えないから、地上からの管制ができない!
光ちゃんはチェックポイントの根室を抜けて、ゴールの札幌に向かって西へ向かっている。だとすると、偏西風を避けて低空飛行しているはず……。
気象情報によると釧路湿原って、霧が発生しているよ。そんな悪天候に管制塔からの情報が途絶えたら、空間識失調を起こす!
空間識失調っていうのは、錯覚のこと。自分の飛行姿勢を見失って、制御不能に陥ることなんだ。
たとえば落下しているのに、真っすぐ飛んでいるように錯覚すると? 斜めに伸びている雲や尾根を、地平線と見間違えると? それは操縦を誤り死に繋がる。
怖いのは、「死の錐もみ」。飛行姿勢が把握できなくなれば、きりもみ回転から抜け出せなくなる。体勢を立て直せないまま、地面と激突だ。
(さらに悪いことに)魔言は深刻な口調だ。(空港のシステムをクラックできる相手なら、トイ・プレーン一機くらい潰すのはわけはないだろう。俺なら電気系統を狙うね。ほんの少し、予想外の電力を使って負荷をかけるだけでいい。そうすれば、電力が持たない。バッテリーが切れて計器が使用できなくなる。トイ・プレーンはシステムをすべて電子機器に頼っている。下手をすると……エンストだ)
「なんとかならないの、魔言?」
(いまの段階では、救助隊が動けない。警察も消防も、事態を把握していないだろう。自衛隊のシステムは動いてるらしいけど……出動に時間喰うよな、日本の自衛隊じゃ。おそらく出動許可が下りるのに半日はかかるよ)
これはまずい!
「光ちゃんを、助けに向かおう!」ぼくは叫んでいた。「救助隊がいまからスクランブルしたって、十分や二十分は手間取るはず。ぼくらがいちばん早いよ。根室を通過しないで、南に進路変更して全速飛行なら、ほんの三十分で捕まえられるよ」
「ショートカットね。大会は失格になっちゃうけど……」逢香は声を詰まらせた。「ごめん、魔言。わたしも一典くんに賛成だわ。人の命には変えられないわよ」
(そうか)魔言は息をついた。そして笑う。(いいさ。それでこそ、逢香だよ)
「向かうわよ、一典くん!」逢香は操縦菅を倒した。
ローカストは右に五十度旋回した。南に機首を向け推力を全開にする。次いで俯角五度で降下して助走し加速する。身体に軽くGがかかる。空に鋭く「突っ込む」飛行。速度計の表示は二百五十キロを超えた。
燃料ゲージが減っていくのがわかる。全速飛行ではそう、長く飛べない。いずれ燃料が尽きてしまうだろう。そうなる前に、時間が勝負だ。
ローカストの緑の翼が、真昼の曇り空を切り裂いた。
……
最悪の事態だった。端末のナビ情報を頼りに光ちゃんの機体を見つけたとき。それはすでにエンジンを停止していた。時速九十キロほどで、緩やかに滑空しつつある。
ローカストは高度七百mを保ち、前方の眼下五百メートル先に頼人を捕らえていた。その先尾翼の機体の後ろについているプロペラは、ほとんど回っていない。
もやが立ち込め、視界は一キロも無い。湿原の上空である。辺りには、滑走路代わりになりそうな平地はない。泥炭の上に不時着するのは危険……。葦のような植物の生い茂る湿原。ところどころ見える水面は、黒ぐろとしている。
「まずいわ」と、逢香さん。「頼人はエンジンが座席の後ろにある。荒っぽく不時着したら、機体が壊れてエンジンに押しつぶされるわよ!」
(なんで脱出しないんだ?)魔言も張り詰めた声。(現在、高度はたったの三百mだ。これ以上降下したら、パラシュートは使えなくなる!)
「怖くなって動けないんじゃ……」逢香さんは、涙声になってきた。
怖くて動けない? 違うよ、ちゃんと操縦しているもん。彼女は諦めていない。そこまでして、なんでこんな大会にしがみつくのだろう。
ふと、光ちゃんの写真が脳裏に浮かんだ。いつも愛機の側にいる、その姿。
そうか! トイ・プレーンを壊したくないんだ。頼人が大切でどうしても見捨てられないんだ。
ぼくは端末をいじくって、光ちゃんと通話できないか試していた。でも、だめだった。おそらく、完全に電子系統が壊れている。
なんで、テロってなに? そんなものにどうしてあんな女の子が巻き込まれなきゃいけないの!?
なすすべが無いまま、ぼくは頼人を見守った。高度二百五十メートル……ダメだ、こんな低空からではもうパラシュート脱出はできない。湿原に不時着するしか……。
高度は徐々に下がっていく。二百……百五十……頼人は着陸体勢に入った。
フラップ(揚力を増すための翼)が降りて、頼人は減速をはじめた。速度はどんどん下がり、ぼくのローカストは頼人を追い越してしまった。時速五十キロくらいだ。
前方には、釧路湿原の泥炭がやや開け、半ば沼半ば池になった湖面が広がっていた。
失速速度ぴったりで、頼人は着水した。音は届かなかったが、「ぐしゃっ!」との音が聞こえたような気がする。頼人は潰れていた。ほとんど水につかり、主翼が両方とも付け根から折れ、無残な姿をさらしている。
そんな……光ちゃん?!
くぅぅっ……。逢香さんが嗚咽をあげる。
いや、まだ死んだと決まったわけではない!
「逢香さん、後は頼みます」ぼくはキャノピーに手を掛けた。
「一典くん?」
「降りて、確認してみます」
「むちゃよ!」
逢香さんは止めたけど、ぼくは聞かなかった。風防を引いて開けると、吹き荒む風圧に苦労して身を乗り出す。高度四百メートルから、ぼくは空にダイブした。
落下するときのへそをくすぐるあの感覚は、もう恐ろしくなかった。すぐにパラシュートを開く。
身体がぐっと持ち上がる……と思うやぼくはズブり、と水に潜っていた。湖面がぱしゃりと跳ね上がって、全身水をかぶった。服にも靴にも、すぐに冷たい水が染み込んでくる。
危なかった。もう少し高度が低かったら、叩き付けられて死んでいたな。
パラシュートを背から切り離して、ぼくは立ち上がった。水はひざまでだ、底無し沼だったらアウトだけど。深くなれば、泳ぐまでだ。コートの下に救命胴衣を着ているからなんとかなる。
美景で知られる釧路湿原も、こうして歩くと気味が悪いなあ。変な生き物に襲われたりしないかなあ。でも日本にはワニがいないのが救いだよね。そういえばずっとむかし、恐竜が潜んでいるって話なかったっけ。クッキーとかいう。
モニターグラスのナビを利用して歩き続ける。頼人のELT(航空機用救命無線機)を探知して。反応はすぐにわかった。そんな遠くない。
でも湿原を歩くって、冷たいよう、寒いよう。時おり深くなっていて転び、ぼくは首まで水に漬かった。
十分くらい彷徨って凍え掛けたとき。霧のかなたに頼人は発見できた。ぼくは小走りに駆け寄った。
声が聞こえた。すすり泣く女の子の声。光ちゃん、生きている!
苦心して近寄る。信じられない光景だった。頼人の折れた翼と潰れて水につかったエンジンが、座席を浸水から防いでいた。ちょうど、乗っているパイロットの光ちゃんを守るかのように。
ほっとした。泣き声は、痛みによるものでは無いらしい。エアバックも作動して光ちゃんは無傷だ。だけど。
頼人は彼女にとって、唯一の友だちだったのだろう。空の運動会は、彼女にとって唯一の生きがいだったのだろう。
座席にすがりついて泣きじゃくる少女に、ぼくは声がかけられなかった。