五月初めの金曜日。ぼく一典はグレーのスーツにビシッと身を包み、仕事に出かけた。夕方の四時半。日は傾いている。薄暗い曇り空に、小雨がぱらつく。こりゃ夕立になるな、傘用意しとこ。おっと、アイスも忘れずに。
大学生活は一カ月ほど過ぎ、ついに待望のゴールデンウィークとなっていた。その最後の日に、空の運動会が開催されるんだ。ぼくは新入りだから応援だけだけどね。
最初はド素人だったぼくも、いまではトイ・プレーンに慣れてきていた。まだ操縦はできないけど学科を学んだから、真理の後方で航法をするんだ。なんてちょっと洒落たりして。
長距離のエアレースには航法が欠かせない。飛行機って、まっすぐ飛ぶのがほんとうは難しいんだ。風によって流されるのはもちろんだけど、方位磁針の誤差があるんだ。磁針って完全な北を示すのではなく、地域ごとバラバラな偏差がある。
これらを照らし合わせて、正確な進路を設定しなければならない。現在位置がわかる衛星ナビがあるからって、それだけを頼ったのでは、最適なコースを取れないんだ。
加えて高度も考慮しなければならない。一般に、高度が高いほど風は強い。だから追い風になるなら高く飛べば有利だし、向かい風なら低く飛んだほうがいい。ちなみに日本の上空って大抵西風。ジェット気流があるからね。天気は西から変わるっていうでしょ。
ぼくは昼間は大学、夜は会社勤めの毎日を送っていた。サラ金の取立てって夜は駄目だけど夕方あたりは顧客いるから、学業となんとか両立できるんだよね。
そして休みの日は、サークルに入り浸り。みんなと仲良くなれたよ、真理さんはもちろん会長の逢香さんとも魔言くんとも。楽しい一ヶ月だったなあ、充実していて。
そんなある日、つまり今日。
ぼくの会社ヒポポタマス消費者金融で、ある債務者の多重債権を一本化してね。その新規の顧客に初めて集金に行ったんだ。
新藤誠治さんか。五十六歳の会社員。家族構成は妻に一人娘だけ。新都心の外れのアパートに暮らしている普通の男性だけど、たいへんだろうなあ。借金五千万円もあるよ。
ぼくは駅から十五分ほど歩き、目的のアパートについた。三階建ての木造モルタルの、普通の建物だ。その一室の前に辿り着く。
ピン……ポン 穏やかにチャイムを鳴らし、ぼくは声をかける。「ごめんください、加科と申しますが」
とびらが勢いよく開いた。セーターを着た小柄な女性。ウェーブのかかった髪。おしゃれなメガネ……。
「一典くん? どうしてここがわかったの」驚きの声だった。
ぼくも驚いていた。名字違うのに。「真理さん? ここ真理さんの家だったの」
ぼくたちはしばし、見詰め合っていた。状況は二人とも、すぐに飲めていた。きまずい雰囲気が二人を包んでいた。
沈黙を雨音がかき消す。折しも雨は大粒になりはじめ、どしゃぶりの様相となっていた。
……
ぼくたちは近所の空き地に移っていた。小さな公園を潰してサラ地にした空虚な空き地。砂場を埋めた跡や滑り台の支柱の跡が、地面に切り刻まれた傷跡のように痛々しい。
手にもつ傘に叩きつけるかのように雨がぶつかる。靴には雨が染み込んで、寒さが忍び寄ってくる。
「直人。わたしのまえの彼氏」真理は小さな写真を手渡した。中肉中背の、間延びした顔の青年が写っている。となりにいる魔法使いみたいな紅いローブ姿の真理さんと、どうにも釣り合わない安っぽい男。
ぼくはなにも言えなかった。真理は語り始める。
「かれはフリーターだけどエンジニアで、いつもいろいろな道具を作っていて。夢みたいなことばかり言ってた。いつか自分の発明品で、世の中を変えて見せるって。そして大金持ちになるんだって。大酒呑みのろくでなしだけど、すごい優しかった。いろいろ相談に乗ってくれてね」
真理はたたずんだまま、さしている傘をゆっくりと回していた。ぼくに目を合わせようとしない。
「わたしの親、資産家でね。いまは貧乏だけど、わたし以前はいわゆる金持ちのお嬢様だったの。でも直人の借金の肩代わりをして、なにもかも失っちゃった。あいつベンチャービジネスに手を出してね。わたしに近づいたのも、金目当てだったのよ。でもわたし、それを信じたくなかった。世間知らずだったわ。あんなやつに引っかかるなんて」
そうだったんだ。だから名字を変えて引っ越していたのか。どうしよう、かける言葉が無いよ。
「わたしうつ病になってね。人間が信じられなくなった。自殺未遂して、精神科にかかっていたわ。大学も一年間休んだ。そんなわたしを拾ってくれたのが、あのサークル。グラスホッブス。みんな親切にしてくれたし、爽やかな空の風は過去を洗い流してくれた。いまになって、やっと」真理は身を震わせている。声がうわずっている。涙をすする音。「やっと、立ち直れると思ったのに。一典くんを恨むわけじゃないけど、あなたもどうせお金目当ての金貸しでしょう!」
真理は小走りに去っていった。ぼくは、追いかけることもできなかった。
突風に傘がめくられ、顔に雨が吹きつけられる。雨はしょっぱい味がした。このぼくに初めてできた親友だったのに。そう、生まれて初めての親友ができたと信じていたのに。
真理から突き渡されていた今月分の支払いの封筒と、小さなクーラーボックスに入れてあるラクトアイスの存在が、この上無くぼくをみじめにさせていた。