逢香はうきうきして操縦席に座っていた。昔の大切な友人から、交際を申し込まれたのだからうれしいのは当然。正式に恋人として、だって。これはがんばらなきゃ。
右手に操縦管、左手にスロットル。両足にはフット・バー。眼前には、透明な視界の良い風防。晴天の青空を写している。眼下には、北国の野原。遠くに見える山は雪を被っている。もう四月、春なのに。
方城逢香は二十一歳。新都心大学の四年生で、この空を飛ぶサークルの会長。いまどき染めないつややかな黒い、ストレートの長髪が自慢の普通の女の子。身長百七十センチの長身、すらりとした体格。みんなからは、モデルみたいだねって言われている。でも顔が美人系というより可愛い系だから、ファッションモデルにはなれないかも。動物の縫いぐるみみたいって、良く言われる。喜んでいいのかな。
わたしはカジュアルな黒い冬用のコートを着て、モニターグラスを掛けている。これが当たり前の、わたしたちの制服なのだ。機能を満たせれば、どうしようと自由という。
冷たい風が、心地よく顔をくすぐる。ここって地上3500メートルなのよね。北海道の山岳上空。飛行機の中だもん。わたしの愛機、「ファイアフライ」(蛍)の操縦席。翼長五メートルの小さな一人乗りのトイ・プレーン。
外見は金属の翼広げる当たり前の飛行機。第一次大戦の戦闘機に似ている。二枚羽根の複葉機だから。わたしはハトのように真っ白に塗装している。機内はぴっしり気密してなく、与圧してない。だから風は、すきまから吹き込んでくる。それがまた良い、爽快爽快。
時速二百キロで、わたしの翼は空を切り裂く。ガソリンエンジンでプロペラを回す、小型レシプロ機としては精一杯の速度。ジェット機よりは遅いけど、徒歩なんかより何十倍も速い。
わたしは、敵機と向かい合った。前方に小さく、相手の飛行機が見える。お互い水平に飛んで、真っすぐに互いに突っ込む。試合開始。
ヘッド・オン! 距離五百メートル。四百五十……四百……。おや?
真正面に見える敵機から白い光の筋が、雨のように飛んできた。眼鏡型のモニターグラスに映し出される、架空の「銃弾」。一秒に十発くらいかな。わたしは鼻歌混じりにほんの少し右足を突っ込んで、尾翼を動かす。機体はほんの少し右にそれるだけだが、これで十分もう当たらない。空って、広いのよ。
わたしはくすくす笑った。魔言ちゃん、もう撃ってきている。この距離からでは当たらないわよ、未熟だなあ。
神無月魔言、十八歳。わたしに決闘を挑んだ、今回の事件の張本人。勝負して俺が勝ったら、付き合ってくれって。たしかにね、悪い子じゃない。年下の可愛い少年。未熟なのよね。イキがって髪の毛茶色に染めてつんつん逆立てて、サングラスなんてして。それでかっこいいと、思っているのかなあ。
余裕で射撃をかわしながら、距離を詰める。わたしからは、もちろん撃たない。
目標はぐんぐん大きくなる。距離二百……百五十……百……。有効射程。でもわたしは右手をきつく引っ張り、操縦管を倒す。機体をロールさせ横倒しにする。わたしのホタルは左急旋回に入った。
戦闘機戦闘のセオリー。正面からでは機銃なんて当たりっこないの。まあ互いに突っ込めば当たるけど、それでは相打ちだもん、意味ない。
旋回の加速度でわたしの身体は操縦席にきつく押しつけられる。身体が重い。両手も重くなって動かしづらい。
苦心して首を巡らし、敵魔言の機体を確認する。すぐ見つかった。見た目は頭上、実際の位置的には左後方。
レッドバロン(赤男爵)。不敵な目立つ、真紅の戦闘機。生意気なやつ、乗りこなす腕もないくせに。魔言のそれも急旋回し、わたしのホタルを狙っている。互いの背後を取り合うのが、空中戦の基本なの。
魔言のバロンは頭上に、後ろへ後ろへと動いていった。わたしのホタルの後方をとりつつある! わたしだって限界の旋回をしているのに、敵バロンって運動性能良いなあ。最大速度もホタルより速いし。ううん魔言ちゃん、お金持ちめ!
敗けられないわよ。苦労してバイトしてお金ためて、このホタル買ったんだもん。努力してサークルの会長にまでなった面子もある。
大丈夫、長期戦に持ち込んで敵のミスを待てば。
わたしは魔言を翻弄した。無理な動きはしない。バロンに狙われたら、降下を交え加速して離脱する。距離が空いたらそれを高度に変え、有利なポジションを占める。
魔言はむきになって、急旋回の曲芸飛行。それでは、無駄な動きが多いのよ。
こうしてしだいに、互いの高度と速度は落ちていった。
レッドバロンは無理な旋回の連続の、ツケが来ていた。脱出が困難になる危険ライン寸前の低空で、とろとろ飛びながら苦しげな金魚よろしくアップアップしている。無理に速度と高度をとろうったって、いまさら無駄。
危ないなあ、失速しちゃうよ。助けるためにもはやくケリつけよ。
わたしは攻撃体勢に入る。低速で不安定なホタルの機首を穏やかに巡らして、魔言を至近距離真正面に捕らえて、トリガーを引き絞った。
一条の光線が、真紅の飛行機に吸い込まれる。モニターが一瞬赤く染まった。レッドメッセージが流れていく。「敵機、撃墜!」。
やったあ、わたしの勝ち!
逢香は微笑むと、長い吐息をついた。少し期待していたんだけど。魔言、わたしの相手にはまだ早いわね。
……
ゲームを終えて、わたしは滑走路に着陸した。自動車道となんら変わり無い、アスファルトの道路。周辺は、なんにもない草原が広がる。普通の道路(催眠防止に曲がっている)と違うのは、故意に一キロくらい真っすぐ作ってあること。こうした飛行場が、いまや全国に数百個所ある。トイ・プレーン用の施設。
丁寧に侵入して慎重にタッチダウンを決める。軽い振動が、身体を揺さぶった。まあホタルは軽量だから、滑走路でなく草地とかでもわりかし安全に着陸できる。
トイ・プレーンは低速で飛べるのが長所。離着陸速度がほんの五十キロ以下だから、大事故は起こりにくい。ましてホタルは安定性第一。すてきな、わたしの相棒。
トイ・プレーンは小型なため、騒音も排気ガスも車並みと、文句は出ない。これがいまの流行のスポーツなのだ。しかも娯楽だけでなく生活の足として定着しつつある。
自動車並みの小さなエンジンでも、人が乗れる飛行機は作れる。ちゃんとしたハイテク工場の量産ラインに乗せれば「飛べるだけ」の軽飛行機なら、なんと原価百万円程度で作れてしまうのだ。世界的なデフレとインフレのギャップによる、経済格差が生み出した驚きの結果。それも市販価格は、原価ぎりぎり。法律で優遇されているからだ。飛行機本体の販売より、それの経済効果で儲けるとの政策。
トイ・プレーンは確かに新しい文化。でも特別、新しい技術を使っているわけではない。むしろ、旧式なのだ。
何故過去にそうした飛行機が、生産されなかったか? それはいくつかの問題がある。安全対策、用途と需要の無さ、なにより使用するパイロットの無さ。
昔で言えば、最も安いセスナ機で数千万円するが、それはたいして量産していないことからの値段だった。
効率化した工場で生産数が増えれば、コストは十分の一以下になる。それに大型機のコストの大半は、機体そのものよりエンジンと電子機器。
動力は自動車と変わり無い、ガソリンエンジンのプロペラ駆動。実績ある大量生産された小型エンジンを使っているから、安くて信頼性が高い。航続力は短いものの、電気モーター駆動のも普及しつつある。
それから電子機器。トイ・プレーンでは高価な計器類を、なんとキレイに省いてあるのだ。操縦席を見ても、計器は自動車より少ない。
でも、安全対策はばっちり。電子機器を、外部に任せているのだ。携帯電話の端末機能を、活用した情報システム。無線はもちろん携帯で。レーダーも高度計も速度計も、携帯内蔵のナビで。その他の情報も全部それ。
そうした情報を映し出すのは、モニターグラス。携帯と直結している、サングラス型のモニター。これを掛けていると、昔の飛行機のHUD(ヘッドアップディスプレイ)と同等の効果が得られるのだ。しかも、三百六十度見られるからさらに有効。
スロットルを絞り、滑走する。後は車と同じ。わたしはモニターを確認した。なにも異常なし。あとはハンガーの格納庫に入れるだけ。サークルの仲間が数名駆け寄ってくる。
魔言のレッドバロンが、並んで滑走してきた。揃って停止する。風防の窓をはねのけて、わたしたちは顔を突き合わせた。わたしは軽く声をかける。「ゲームでやり直しなさいよ、おチビさん」
「いまはチビじゃない。逢香」魔言は真顔で、むすっとしていた。
思わず吹き出してしまう。わたしと交際するって、本気だったんだ。今時純情だなあ。久しぶりに会ったけど、三年前と全然変わらないなあ。わたしと喧嘩して、泣いていたくせに。くすくすくす。
「あのときの借り、返せたかな。いじめてばっかりだったもんね」わたしの言葉にどっと、回りにいた仲間から笑いがもれる。
魔言は頬を染めた。「人聞きの悪いことを言うな!」
どなる魔言。ふと気づく。声変わりしたんだ、昔はソプラノなのにいまは快活に響く。
「ごめんね、ほんとうの事を言って」にやりと皮肉ってやる。
また回りが騒ぐ。会長の奴隷だと、仲間がげらげら笑っている。子供をいじめるのはおもしろいなあ。でも魔言は真面目だった。
「逢香、約束だ」魔言は真顔で声をかける。「今夜、空いてるだろ。良い店を予約した」
誘いは正直うれしかった。でもつい意地悪してしまう。「え~っ! あなた敗けたのよ」
「あのときの借りだよ」魔言はニヤりと笑った。「これで一勝一敗だからな。対等の条件さ」