鬼だ! 飛行機のパイロットって、絶対に人間じゃない!
ぼく(一典)は内心声をあげていた。実際に言わないのは、その気力がもう無いからだ。トイ・プレーンの機内、後部座席。前にはパイロットの真理さん。
飛行サークルの歓迎飛行は昼から始まったが、なんと六時間続いた。離陸と着陸をなんども繰り返した。信じられないよう、もう夜じゃないか、真っ暗だ! ネオンの夜景の見える空、だいぶ高い。コクピットには蛍光色で光るいくつかの計器がちらつく。怖い。
まさに特訓だった。
ええと。最初に離陸のしかたを説明されて、それから単純な水平飛行と緩い旋回、そして着陸。これを五セット。全身から血が引いていく音を聞いたように思う。それだけで、夕方になっていた。
それで、もう終わりと思ったのに。これからが本番と真理は言う。で、コンビニのおにぎりで夕食を済ませてから、いま飛んでいるわけだけど……。
アクロバットだって?! 曲芸飛行?
「じゃあ、ループをするわね。宙返りよ」真理が明るく言うと、なにやら機体が持ち上がった。
加速度に、ぎゅっと身体が押しつぶされる。どんどん上を向いていく! ぼくは胸がむかむかした。口の中が酸っぱくなる。それどころかついに、天地が逆になった。頭が下向いているんだよ、怖いよう! 声も出せない。
「はい、逆さになったでしょ。このまま引き起こすだけで、元通りよ。感想は?」
ぼくは答えられなかった。真理はきゃははと笑う。「気に入ったみたいね。じゃあ、しばらく背面飛行するわ」
冗談じゃない! ぼくは慌てた。思わず叫ぶ。「真っすぐ飛んで! もっとゆっくり」
「え? そう。わかったわ。ロールして、と」真理が操縦菅を右に倒すと、機体は右に横倒しに半回転した。
やった、ちゃんと上を向いた!
「結局インメルマンターンになったわね。それから、ゆっくりね。はいはい」と、真理。こんどは左手でスロットル(出力)を絞っている。
ぶんぶんと響いていたプロペラやエンジンの音が、小さくなった。だんだん、速度が下がっていく。ほっとした。これで、安心……。
「こうしちゃ、いけないのよ」と、真理。
「なにが?」いけないって? あ!
ガクん!!! 突然、ぼくは落ちた。へそのあたりがくすぐったくなるあのゾッとする感触。飛行機が落っこちている! 頭を下に向けて、どんどん下がっている。なんで?! 真理はつとめて穏やかに説明した。「失速よ。飛行機って速度が無いと飛べないのよ。このままだと、墜落するの」
げぇっ! おろおろおろ……ぼくは嘔吐していた。未消化のおにぎりと黄色い酸っぱい胃液が、おろおろと逆流する。ビニール袋はとっくに用意してあったけど、かなり座席にこぼした。服も汚れちゃった。そんなこと気にしている場合じゃないけど!
「あ~っ、やっぱりね」真理はくすくす笑う。「気にしないで、わたしは気にしてないから。トイ・プレーンって計器とか少なくてシンプルな操縦席でしょう? 掃除楽なのよ。よくあることよくあること」
「どう…にか……して」ぼくは必死に頼む。死にたくないよう!
「うんうん、どうしましょうねえ」真理はいたってのんき。こんな事態なのに、落ちているんだよ!
「上昇して!」
「はい」真理は素直に答えた。操縦菅を引く。
機主が上を向いた。やった! しかし次の瞬間。
がくっ! 機体がまた傾いた。身体が宙に浮く(ような感じ)。これって、落ちているよう!
「無理に上昇しようとしちゃ、いけないのよね。理科の力学を思い出して。振り子の実験やらなかった? 位置エネルギーと運動エネルギーの関係。つまり高度を上げると速度が下がるのよ」真理はお気楽に講釈している。「では、問題。解決策は?」
だったらもうダメじゃん! どうしようもないよ。きっと真理さんもそれを知ってあきらめているんだ。それとも、ぼくを殺すためのヒットマンだったのかも!
「……」ぼくは悲鳴をあげた。でも声にならなかった。下を見れば、街の灯りがぐんぐん近づいてきている! 助けて! あれ?
体重が戻った。機はまだ不安定に揺らぎ下を向いているが、もう「落ちて」はいないようだ。下に向かって、飛んでいる。あ、水平飛行に戻った。真理は説明する。「ほら、大丈夫よ。ある程度落下すれば、速度がつくから自然に直るの。怖がらないことが、いちばん大切なのよ」
いまになって、涙が出た。ひどいよう、いじめだよう。うるうるうる。
「あらあらごめんね。ほんとうは学科から教えるものなのだけど。一典くんみたいに理由もなく飛行機が苦手な人には、まず体験なのよね。わたしを信用してよ。このトイ・プレーンもね」
……ぼく人間不信になりそう。こんな荒療治ってあり?!
「言い忘れたけど。トイ・プレーンで死ぬことはまずないわよ。だって、機体そのものにパラシュートついてるもの。せいぜい数百キログラムの飛行機だから、機体ごと大きなパラシュートで吊すようになってるの。もちろんパイロット個人にもパラシュートあるし。座席についてるでしょ? 事故で制御不能になっても、まず助かるんだから。だから民家の屋根に落ちても、少し屋根をへこます程度だしね」
それを先に言って! 返す言葉もなかった。悪魔だ!
「さあ、着陸よ。もう夜中だもんね、お疲れさま」
やっと終わった……。え?
「でもそのためには、高度を下げなきゃね。どうせだから、スプリットSをするわね。こんなふうに高度はあるけど速度が足りなくなってピンチのとき、戦闘機は使うのよ」
またアクロバットだ! 左にぐるりと横転して逆さまになり、それから地面に向かって頭を下げる。逆向きの宙返りだ! 降下することで、ぐんぐん速度が増していく。再び、地面の街の灯りが頭上に迫ってくる。
ぼくは歯を食いしばって耐えた。ジェットコースターだと思えばなんとかなる! ぼく強いもん、中学の体育の柔道だって、負けたことないもん。女になめられてたまるもんか! う~~~っ!!!
………あ。
気がつくといつのまにか、飛行機は止まっていた。滑走路だ、地面の上だ。恋しかったよう! 作業員が駆け寄ってきた。昇降用のはしごをかけてくれる。ぼくはそれを伝って降りた。手に力が入らない。地面に降りても、まだなにか飛んでいるような感覚に襲われる。
「がんばったわね」真理はぽんと、ぼくの肩を叩いた。「馴れたでしょ? その証拠にもう吐かないじゃない」
違うよ。もう吐くものが無いだけなのに。
結局、八時間のフライトだった。こんなつらい目に遭ったの、久しぶりだよ。やくざに追い込みかけられたとき以上! でも。
それだけに、光ちゃんのことは、なんとかしてあげたいなあ。あんな女の子が、こんな想いまでしているとしたら。
春の晴天の夜空を見上げ、星の光を浴びながら。ぼくはちょっと感傷に浸っていた。