硫黄島攻略を前に、インセクトの緊張は高まっていた。鳳翔の小艦隊は十分な補給整備を済ませると那覇から出港、日米の攻撃に警戒しつつ硫黄島へ向かっていた。
 それから三日後の今日も、俺たち戦闘機隊は中隊別に哨戒任務で空にあった。ちょうど正午。霞中隊の九機は慎重に周囲に目を走らせていた。最近は天候が悪く、視界が効かない。これは優れた防空スクリーンを完備する米軍艦艇に対して弱みとなるな。戦力を一点に集中されたらヤバい。前日の冬月と時雨の部隊の二の舞だ。

 フライトを始め、一時間弱。俺たちは敵機と遭遇した。東方向から大編隊、ほんの十キロ程度の近距離に位置している。互いに時速五百キロはするのだから、正面から向かえば一分とかからない。それも最悪だね、俺たちは中隊九機なのに敵機は四〇機以上いやがる。一個大隊の化け猫だ!
 霞は務めて冷静に指揮を執った。「冬月中隊、時雨中隊に連絡、救援を請う! 全面対決になるわ、鳳翔に進退の指示を」

 敵さんは『キラー』隊か。俺は冷や汗をかいていた。冬月と時雨の哨戒空域は遠すぎる。いまから飛んできてくれたって、十分はかかる。それに対しこの体勢で戦ったら、俺たちは五分もしないで全滅だ。かといって反転帰投する愚も犯せない。
 孫子の兵法に曰く、五倍なら攻めよ、互角なら勇戦せよ、劣勢なら逃げよ、勝算が無ければ戦うな、というが。戦闘機戦では敵に襲われたら正面から応戦するのが、一番有効なのだからそれは通用しない。最大速度の利が敵にあるなら逃げられない。数の利が敵にあるなら、接敵する前に周回し、優位な空位を占める余裕も許されない。

 俺たちは出撃時点ですでに劣勢にあったんだ。後はばらばらに散開して雲に逃げ込むような消極的手段しかとれない。いちおうゼロの方が旋回性能と航続性能は高い。俺や霞ほどの腕があれば逃げ回って、敵の燃料切れを誘うことも不可能とはいえない。前日の時雨のように。
 だが多くの僚機はそうはいかないだろうし、真面目で潔癖な霞が指揮権を放棄して逃走し、部下を見殺しにするはずはない。『俺一人逃げる』、その考えを否定する自分に驚く。俺はなにか変わった。霞のため? 度し難いな。しょせんゲーム繋がりのだけの、現実に会ったこともない女性なのに。
 戦局が苦しくなりつつあるのは、分かりきっていた。いつかこんな日が来てもおかしくはないと、思っていた。俺も覚悟を決めるときかな。史実緒戦では無敵であったゼロも、最後には圧倒的多数の敵の前に標的機のように撃ち落されていったものだ。俺はともかく、初の給料日が目前の霞には酷な話だ。

 引き際かな。俺もここまでか。撃墜されたら、俺もそろそろこのお遊びから足を洗って。いままで逃げ目をそらしていた実生活に目を向けるべきか。いつまでも引きこもりなんて、できないものな。が、悪足掻きはしてみるか。ほらを吹く。「霞飛曹長、敵は網にかかった。先行した時雨隊と挟み撃ちだな」
 とんでもないはったりだが、この通信は敵さんも聞いていることだろう。うまくいけば、深追いを避けてくれる。その隙に鳳翔隊が合流できれば、五分の戦いができる。

 そのときだ。予期もしないことに、とんでもない通信が飛び込んできた。敵からだ。「わたしはエンタープライズ空戦指揮官、キリング少佐です。われらに交戦の意志無し。願わくは話し合いに応じられることを」
 霞は困惑した声で答えた。「鳳翔戦闘機隊中隊長、霞飛曹長です。キリング少佐、貴官にどのような意図があるのですか?」
「エンタープライズ空母艦隊は、ノンセクト・インセクトへの亡命を希望します」


 それから、キリングは直属の小隊を除く大隊を帰艦させ。霞の誘導に従い鳳翔に着艦していた。賓客として迎え入れられる。キリングは青年紳士といった面持ちの、長身でがっしりした三十前の感じの良い白人男性だった。
 俺たちは唖然としていた。エンタープライズがインセクトに参加する? 米軍最精鋭の飛行部隊『キラー』隊が。
 二時間ほどが経過した。キリングは金森艦長や美嶋少佐と話し合っている。そこは一応、応接用の部屋なのだが同時に尋問用の部屋でもある。マジックミラーのある薄暗い隣部屋には俺たちゼロ戦乗り数十人が声を殺し、会話を忍び聞いていた。

 キリングは説明していた。「わたしは米海軍で、居場所が無いのです。わたしの飛行隊は、妬まれていましたから。VT信管をB17に搭載し、対戦闘機に使用したのはわたしの発案です。ほかの航空機隊からは恨まれていました。ゼロの圧倒的性能の前に次々と撃破されていったのですから。帝国空母艦隊への夜襲を提案したのもわたしです。手柄を独り占めにした形でしたからね。
 琉球への攻撃は、わたしの本意ではなかった。独立し自由と平和を勝ち取った国家に、戦争を仕掛けるなんてできない。あれは帝国戦艦の攻撃を予期したわたしの苦肉の策でした。単独で硫黄島戦線から離れて難を逃れたのです。これで後に引けなくなりました。それに神無月氏には恩がある。下世話な話ですが、彼の的確な情報により、わたしは数十万ドル稼がせていただけましたからね」
「そういう事情であれば、参戦を歓迎します。我らは来るものを拒まないのが流儀」金森大佐は柔和に答えた。

 だが、不意にキリングの口調は変わっていた。棒読みのたどたどしいインチキ外人のような日本語になる。「ただあるパイロットには恨みがある。キコエテイルダロウ、デテコイ、シグレ」
 とたんに、キリングを観察していた時雨は部屋から逃げ出していた。霞が、待ちなさい、と後を追う。
 と、通路上で俺たち搭乗員とキリングは、ばったり顔を付き合わせる形となった。キリングは霞を見てにっこり笑う。
「さきほどはありがとう。あなたの情報は手に入れていますよ。霞飛曹長、紫電改を駆る名中隊長ですね。あなたの技量は時雨にも並ぶ上、戦いも紳士的です。時雨は動きの鈍いルーキーから叩き落していくくせ、逃げ足が速い」
「こちらこそ。キリング少佐、日本語お上手なのね。翻訳機も使わず」
 好意的な霞の言葉に、キリングは口調を砕いた。「学生の頃、アジア経済専攻だったからね。どちらかというと中国語の方が得意だよ。でもわたしは落ちこぼれさ。本当は、外交官になりたかったんだ。適性検査にひっかかってね。公務員にはなれなかった。
 進学による兵役拒否に加え、反体制的発言を少年のころからしていたからだな。警察を否定することなんて言っていたんだ」
「アナーキストだったの?」
「まさか。警察が嫌いなのは、警官が拳銃を持っているから。わたしは意味もなく力をひけらかすやつらが嫌いで、平和な社会を守るはずの警察官が何故銃を持っているのかと疑問だった。だからグレートブリテンの銃を持たない警察は共感した。そんなだから、教師から「お巡りさんになったら?」などと聞かれたときに、「誰がそんなものになるか!」と答えていたというわけ。小学生時代の思い出だけど」
「むしろすごいわ、外交官の道を蹴るなんて。なぜそこまで信念にこだわっていたのですか?」
「弱いものいじめをしてるやつらが、ヒーロー気取りで。拳銃が撃てるからなんて理由で警官になりたい、なんて言っているのだから。まあわたしの偏見があったことは認める。軍隊を嫌っていたのも、同様。戦争は起こさないことが重要であり、主戦論者は嫌いだ。戦争は政治問題を解決する、一つの非常手段だが。もっとも愚劣な手だ」


亡命者 後