かつて英雄がいた。情報化社会に大革命をもたらしたのだ。代議士を介する間接民主制を廃し、民衆が直接議会に参加、法案に個人が一票投票する直接民主制を打ち立てたのである。全世界に広がったコンピューターネットワークを利用した『ソフト』で。
 
 時代が生んだ彗星とも、またはブラックホールとでも言うべきこの男の名は神無月真琴(かんなづき まこと)。高校すら出ていなかったが数学検定一級を中学生にして取得し、若干二三歳にして片手間に国立大学院数学科博士課程を単科履修生として通過した、天才的SE、つまりハッカーだった。
 それは美味な水湧く、底無しの求心力を持つ暗黒の井戸と言えた。
 
 ここに文字通り、民衆の民衆による民衆のための社会が始まるかに思えた。しかし。
 この治世は愚劣を極めた。他に呼ぶべくも無い衆愚政治だった。社会問題は臭いものにはフタと封じられ、短絡的な利己主義極まる議案が次々と通った。マスメディアによる報道により、人々は右向け右とばかりに軽薄な煽情に流された。自由と言う名の全体主義。
 
 たしかに、世界は記録的な経済成長を果たした。しかし富と権力は一部の企業とマスメディアが独占し。貧富の格差、民族紛争、環境破壊は悪化の一途を辿った。
 少数層、貧困層、障害者、高齢者。社会的弱者の権利は弱まるばかりだった。
 民衆は『情報』という巨大な怪物の玩具に過ぎなかった。
 
 こんなことは純真な理想家、神無月青年の望んでいたことではなかった。しかし学者馬鹿とでも言うべきか、神無月は数学問題に関しては精通しているが、政治や経済となるとまったくの素人であった。経済は数学によって論ぜられるが、それは経済学の常、新たな社会体制に対してはその方程式の解法は未知数だった。
 ここに神無月は力に対しては力を、と決意する。情報に対しては情報を。神無月は情報屋として暗躍することとなる。かれは消息を絶った。
 時に西暦二〇四〇年、神無月真琴二六歳のことであった。


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