三月半ばの土曜日。新都心には霧雨が降っていた。肌寒い夕暮れ。

雑多なビル群を眺める一筋の視線。ショートカットのおしゃれな茶髪の小柄な女性は、悪戯っぽく微笑んだ。二十の若々しい端正な顔はそのままだと冷たい印象を受けるほどだが、それは魅力的な表情だった。

知己は時計を確かめた……五時三十分、時間だ。

「楽しみね。みんな、待ってて」

いつになく大がかりな仕事のまえに、そうつぶやいてみる。計画通り、作業員通路からわたしは新都心スタジアムに入った。

 狭い不十分な照明の照らす通路を、薄い青色の清掃員の服装をしてすすんでいく。制服の帽子はわたしの額の右隅にぽつんとある小さな「角」を隠すのに役立っていた。

 角。知己は人間ではないのだ。少なくとも、純粋な人間では。

 わたしは手にトランクを下げ、ときたますれ違う他の作業員に軽くあいさつしながら歩いていた。みんな、わたしがなにものかは気づかなかった。不法な侵入者であることは。ちょっとドキドキしてたんだけど。このトランクの中身に、五千万円の札束が入っていることバレやしないかと。

 目的の場所への扉は鍵がかかっていたが、そして開ける鍵をもっていなかったが、それはわたしには問題なかった。指先ひとつで素通りできる、バーグラー「泥棒」の異名を持つわたしには。

 立入禁止区域、危険な通気口への小さな侵入口。スタジアム内部に迷路のように張り巡らされ、空調を司るその狭いトンネル。わたしは這って進んで行った。途中、プロペラがあった。換気扇の大きいやつだ。でも、止まっている。かれの仕事のおかげね、マーダック。

 それをすり抜け、トランクを開けて札束を取り出し目的を果たすようセットする。百万円ごとに束ねてあるそれをほぐすのは、五十組もあるので結構手間だった。

 わたしはその場でお札に埋もれたまま時間を待った。マーダックからは本当は、この設置を完了したら引き返してバックれるよう指示されていたのだけど、それじゃあつまらないもの。特等席でこのショーを見物させてもらうわ。ドーム型スタジアムの中央の天井、下方に競技場が見下ろせるこの位置で。

 見れば観客は超満員。旧首都東京にあったスタジアムに比べれば、この新都心のは小さいけれど、一万人以上はいるのだろう。その競技場。中世ヨーロッパ風の舞台……でもどちらかというと古代ローマとかギリシアかな? 時代考証むちゃくちゃなコロシアム、円形闘技場。剣闘士たちが死を賭して戦う場所。

 わたしも、ひょっとしたらそこで死ぬ運命にあったのかな。右手で角をさわり、ふと思う。雑種の亜人の遺伝子を持ち、人間の母の卵子により、その身体で生まれたハーフフェアリーのわたしなら。

 スタジアムはいつにない喧騒に包まれていた。特別イベント。テロリスト『カウンターハンター』が乱入したのだ。ほんの十名ほどのかれらに、五十名以上いるハンターが襲いかかろうとしている。警備員はそれ以上。

 やばいな、わたしも協力しなきゃ。カウンターハンターの一員として。でもいま飛び出して行ったら自殺行為。わたしは計画を知っているので時を待った。そして。

 照明が消えた! 真っ暗やみのスタジアムに浮かび上がるのは、巨大スクリーンのおぼろげな人影のみ。それが叫ぶ。マーダックが。

「ショーを見るだけなんて退屈だろう? ……受け取れ、ファイア、ブレイクダウン!」

 空調が動き出した。通路のプロペラがグルグルと回転し風を送り出す。それに乗せて、五千万円のお冊が風に乗って吹き飛ばされた。

ゲーム開始だ! わたしは通風口の穴からひらりと身を踊らせた。一本の細いロープを頼りに地面まで数十メートルのダイビング。ひらひらと舞うお金に混じってのサーカス芸だ。

 わたしはひらりと着地した。観客が外周の席から金を拾いに乱入してきたのと同時だった。わたしは小走りに進み、任務を遂行した。

 闘技場のゲートに駆け込み、薄暗い通路を抜ける。オリがしてある監獄に取りつく。中には数十名の亜人の奴隷剣闘士「鬼」たちがいる。粗末な衣食しか与えられない、裸同然の冷遇される奴隷たち。わたしは声をかけた。

「いま、助ける! ついてきて」

 わたしはオリの鍵を外した。扉を開く。しかし鬼たちは警戒して出てこない。無理もない。彼らがここから出されるときは、すなわち自分が死ぬときなのだから。わたしは帽子を外して額の角をさらした。

「わたしはハーフフェアリーのトッティー。あなたたちの仲間よ。ブレーブは知っているわよね、その友だちよ」

 鬼たちはざわざわと語り始めた。みんな知っているのだ。ハーフフェアリー、人間と亜人の混血は数少ない。それはみな亜人の生みの親、神無月教授の屋敷で育てられたのだから。教授はわたしたちを実の子同然に育ててくれた。実子の、真琴くんと同じように。

 ふと、思う。真琴、どこへ行ったのかなあ。一緒に亜人たちを解放するため活動しようって、誓ったのに。でもいまはそれどころではない。

「さあ、行って! 通路は確保してあるわ、そこから地下駐車場に車が手配してある。援護団体が助けてくれるから」

 鬼たちは事情を飲み込み、逃走しようとした。その時だ。

「脱走だ、脱走だ、みんなにいいつけてやる!」

子供の声がした。

 見れば、小人だった。亜人の一種。小人は主に召使いとして使われている。他の亜人に比べ、特徴が無い。ほとんど人間の子供と見分けつかない。考え方も人間の子供みたいだから、だまされやすい。おそらく自分が人間の子供だって信じているのだ。気づいたときは手遅れだった。その子は人を呼びに通路を走っていってしまった。

「やばいな、おれが引き受ける」一人の鬼剣闘士が申し出てくれた。「おれが警備員を防いでいる間に、みんな逃げてくれ」

 それを聞くと、鬼たちはおれもおれもと申し出てくれた。鬼はみんな勇敢で義理かたいのだ。でもわたしは止めた。

「大丈夫よ、わたしにまかせて。扉を閉めて、鍵を壊す。そうすれば追っ手はこないわ。行って、時間が無いの。余計な戦いをしないで」

「わかった、おじょうさん。逃げ延びてくれよ!」

 鬼たちは口々にお礼を言って去っていった。わたしは通路を駆け抜ける。少しでも時間を稼ぐ。扉を閉める。ロックして鍵を破壊する。シャッターを閉めて、同様にする。これらを奴隷の脱出口以外、できる限り繰り返す。

わたしは汗ばむくらい走り回った。でも、それももう限界。

 ある扉を閉めたとき、その向こうにはもう追っ手が来ていた。扉はバンバンと殴られていたが、ついに鍵の部分にバーナーが使われ焼き切られた。四人いる警備員は、武装していた。銃を構えわたしに向ける。どうしようもなかった。

 炸裂音と同時に弾丸が、わたしの腹部にめり込んだ……。

   ……

 あ~、やっと終わった。もう八時だ。スタジアムで一仕事して、オフィスに戻ったときはもう誰もいなかった。でもぼくは一人、今日の業務を確認していた。椅子の上で、背伸びをする。

 ぼく、加科一典。十九歳だけど金融会社社長をしている青年実業家。それも雇われ社長じゃなくて株主オーナーなんだよ。若輩ものだけど性格がいいから、ずっと年上のみんなに信頼されてるんだ。

小さい頃いじめられてたのが理由かな。名前をもじって「おかしなおかず海苔」って。だからいまではオープンポリシー、ざっくばらんに部下に接してる。

 別に生まれは金持ちじゃないよ。それどころか喰うや食わずだったなあ……よく身長百九十センチに成長したものだ。どうやってのし上がったかって? 高校行かないで商売してただけだよ。中東からしゃぶしゃぶを輸入して街で売ったり、中古車にせんしゃをサービスして戦乱の続く国に輸出したり。

誠心誠意まっとうに商売してるのに、なぜか警察がうるさかったなあ……いまではいい思い出だ。

 サラリーマンローンの稼業は、楽じゃないよ。手強い顧客が何人もいてね。なかでも直人ってやつは宿敵だなあ。億単位の借金を抱え、まともに勤めもしないヤツ。ぼくと何度街で衝突したか。それが契機だったな。

ソードダンサーとかいうテロリストのレジスタンス活動があったとき、ぼく直人の取り立てをしてて。ぼくはただ仕事してただけなのに、なぜかテロリストの仲間扱いされて乱闘に巻き込まれちゃった。

 それ以来、ぼくと直人はカウンターハンター。体制に刃向かう義賊レジスタンス。ぼく『フェイクジャグラー』に直人『ジャンクドランカー』さ。

まったくうやむやだなあ。ぼく、争いごとは嫌いだよう。

 ピリリ・ピリリ。単調な昔ながらのリレー音で、ぼくの端末に連絡が入った。携帯を取って耳に当て応答する。

「はい、こちらヒポポタマス消費者金融ですが」

(フェイクジャグラー、任務だ。引き受けてくれ)

「マーダックさん? なんですか」

(仲間のカウンターハンター一人が捕らわれた。助けて欲しい)

 もう夜なのに。でも行かなきゃね。ぼく平和主義者だもん。みんなの平和のためには、自分ひとりの身を危険にさらすことくらいは、受け入れられるんだ。

「了解、詳細を」

(場所は今日のスタジアム、相手はカウンターハンター『バーグラー』知己)

 えぇっ! 知己? それってぼくの顧客の一人、ハイパー滞納者じゃん。ブラックリストでも十指に入る、海千山千の山師だ。直人といい勝負の借金王。ぼくはふつふつと戦意が沸いた。良い機会だ、取り押さえてやる。ぼくは快活に答えた。

「了解、マーダック!」