始まっているな。俺はニヤりとほくそえむ。

日中バイオの子会社研究機関、そのちっぽけな五階建てのビルを俺は見上げる。両隣をもっと高いビルに囲まれた、単一目的の建物。もう、夜の九時過ぎ。オフィスビル群の外れにあるここの通りは、もう歩くサラリーマンすらまばらだ。

 俺はビルの裏に回り、ちっぽけな非常口を確かめる。開いている。計画通りだ。バーグラー『泥棒』。ピッキング、開鍵はお手の物のカウンターハンターの仕事だ。あとで彼女には研究資料を盗み出してもらう。バーグラーは本職は時計メーカーの女性技術者らしい。

 俺は通路を進み状況を調べる。なにごともなく正面玄関に出た。もう受付はいないのは当然として、慎重に受付口を覗き込む。よし。警備員は眠りこけていた。

おそらくヒュプノティスト『催眠術師』の仕事だ。精神科医院に勤務する女性ソーシャルワーカー。心理学を専攻していた彼女ならではの技。

 もはや、大して警備員はいないはずだ。ましてや、ハンターとなると。ジャンクドランカー直人に偽の作戦を吹き込んで、わざと捕虜にさせたおかげだ。戦力がそがれるはず。

 だが、仮にハンターが残っているとして、いまの戦力で対抗できるだろうか。少なくなったとはいえ数では圧倒的。

それでも対抗できるだろう。この俺神無月真琴が、マーダックである所以。情報を巧みに活用し、正面勝負を避ければ造作も無い。

 ハンターはその戦いのスタイルから、『剣匠』ソードマスター、『銃聖』ホーリーガンナー、『拳帝』グラップタイクーンなどに区分される。冗談みたいだが、現にテレビ報道ではそう紹介されるのだ。テロリストに対抗する、国民のヒーローなのだから。有象無象が。俺は嘲笑する。

 ターミナルの携帯機能を使いアルケミスト『錬金術師』に連絡。薬学部に在籍するカウンターハンター。

モニターでその姿を見て苦笑する。ファンタジー映画の魔法使いのような紅いローブ(長衣)のコスプレ。悪乗りもいいところだ。 

(了解、ランバージャック)快活な返信。彼女は呪文のように唱える。(メルクリウスの流れ、スルフルの怒り……サルよ、時をつなぎとめて!)

 ボムッ!  かすかな爆発音がした。床に微妙な振動。

 非常灯が紅く燈った。警報が鳴り響く。この程度の反撃は予測の範疇。

 アドバンスド・ターミナルを起動させ、監視カメラの映像を盗む。モニタグラスに映し出される実験室。残っていたわずかな研究員は、突然の出火に右往左往している。

本当は火事ではないのだ。アルケミストの放った、「花火」。煙だけの代物だ。それとは他に、炎を吹き上げる花火とバンと閃光を放って破裂する爆竹もあるものだから、臨場感たっぷりの偽火災だ。

 視点を切り替える。施設の大半を占める収容場の監獄。奴隷の亜人たちが閉じ込められている。狭い檻に百名近くいるだろうか。火災だというのに、管理者は彼らを脱出させる気配はない。奴隷たちを心有る生き物とみなしていないのだ。ペット以下の待遇。俺は静かに怒りを燃やす。

どのみち亜人たちに危険は無い。みんなよく任務を果たしてくれたようだ。おかげで、一斉蜂起は成功した。俺は奴隷救出に向かおうと、そこまでの通路を確かめる。

 モニターに乱闘シーンが映った。予期しないことだ。すらりとした人影がステッキを手に、制服を着たガードマンに飛び掛り打ち倒す。長いコートをマントのようになびかせる女性……逢香? 俺はソードダンサーは呼んでいないぞ! あの馬鹿、勝手に……。

 俺は慌てて駆け出した。ヤバい、正面勝負となっては、この研究施設の戦力は大きすぎる! 火災が陽動のワナだとバレるのに、そんなに時間がかかるはずはない。何十名というハンターが殺到するぞ。たしかに味方の「鬼」剣闘士が突入する手はずだが、それでは大乱闘、死人が出てしまう。他の奴隷の護衛と誘導に徹し、穏便にすませるのが本筋なのだから。

 場所は五階か。行く手を阻んでいたシャッターが、電子ロックなのが幸いした。旧式のアナクロ錠なら、俺の手には負えない。アドバンスド・ターミナルを軽く扱うだけで、扉が開いた。この先に逢香が……しまった! 遅かったか。背筋が緊張で痺れる。拳銃!

「おまえら、動くな! テロリスト相手でも過剰防衛は罪になるからな」

 白衣を着た中年研究員は、拳銃を手にもてあそびそう威嚇した。室内はパソコンがずらりと並ぶ演算室。遺伝子配列の情報を処理するのに、コンピューターを使うところだ。

 相手はその所長か。銃を持ち出せたということは、つまりその許可が下りたということ。対応が早い、事態をすぐに認識したのだろう。が、一人か。思ったより少ないな。

 部屋には逢香ともう一人、直人。なぜここに? 俺は思い当たって失笑した。ドランカーのやつ、亜人ではないかとの嫌疑をかけられたのだな。遺伝子検査でこの施設へ送られたのか。堕落した生活をしているのだ、無理もない。

 二人とも、銃口の前に両手を上げている。どれほど武術の腕があろうと、銃火器に敵うはずは無いのだ。逢香が動いた。俺をかばうように移動する。その目が、俺への感謝と謝罪を述べている。容易ならない。どうする?

 研究員は余裕の構えだ。

「ハンターはすぐに戻る。足りなければ機動隊がやってくる。そうすれば形勢逆転だ!」

 俺はそれを知っていた。こんな破壊活動をいくらしたところで、亜人たちを助ける本当の勝利はないことを。この戦いは、単なる復讐の手段に過ぎない。他の多くの犠牲のうえに成り立つ、血塗られた背徳の戦い。

俺は自分の運命を知っていた。ほんとうの目的を果たせないまま、いつか虫けらのように死に、地獄に落ちることを。それが、今日? ここまでなのか。

 俺は対策を思案した。クラック行為で起こせるアクションは? 部屋の電源を落とし真っ暗にする。いや、すぐに非常電源に切り替わるだろう。防災機能に働きかけてスプリンクラーを使う……だめだ、そんなことで銃が防げるはずはない。

「亜人たちはいまは敗れるとしても」直人は呑気な声で余裕をカマしている。そして意外なことを言った。「どのみちこの研究所はつぶれる。銀行口座を調べてみな」

「たわごとを。そんなはったりで時間稼ぎか?」

研究員は嘲笑した。