旧日本首都であった東京は、遷都されていた。東京からかけ離れた名ばかりの新都心、ちっぽけなその一角。傘を差すまでもないほどの、霧のような小雨が降りしきる日だった。
夕闇迫る五時過ぎ。味気ないうす汚れた雑多なビル群を歩くのは、同じくくたびれた雑多な人込み。
そんな中に、「彼女」はいた。新都心駅から電車を下り、人込みに混じり道を行く。
すらりとした外見の少女。身長は百七十を少し切るくらいか。小柄ではないが、長身化の進んだ二十一世紀初めの日本人……つまり現代の女性としては決して高いほうでもない。いまどき珍しい、自然の黒のままのつややかな長髪。
容姿が整っておりなかなか可愛い点くらいを除けば、どこにでもいる普通の十八の学生だ。学制服ではない、カジュアルにデザインされたブレザーを着ている少女。
彼女の名は逢香。もちろん、血縁や友人以外でその名を知られることはない。しかし逢香の異名は、この街を震撼させていた。
「ソードダンサー」
逢香は呟いてみる。街頭の大型モニターで、そのニュースがやっていた。
(……昨夜も例のソードダンサーが現れました。新都心繁華街の風俗店に押し入り、労働者の亜人女を逃がしたのです。鎮圧にあたった数名のハンターが負傷した模様。
確かに亜人「妖精」の性を売ることは風紀倫理上の問題が取りざたされていますが、これについて治安当局は……)
今世紀初頭に開発された遺伝子操作によって生まれた「亜人」。人間の遺伝子を操作して作られ、人にして人に有らざるもの。かれらは人間の奴隷とされていた。蔑視され迫害と虐待の対象。人権のない存在。人々は嫌悪と優越の念を抱いた。
しかしあるいはその姿を自由なく世に飼われるように暮らしている自分を照らし合わせ、同情したりもする。逢香が、そうなのだった。
その奴隷たちを解放する義賊を気取るものたちがいた。テロリスト、とされている。しかし義賊の側からすればレジスタンスなのだ。
ニュースはその一人、謎の女を取り上げていた。銃火器相手では無力なはずの刃物や体術で、テロリストを倒すためのハンターをいいように翻弄する痛快な愉快犯。
それがソードダンサー『剣の舞姫』。
スクリーンではしゃれたアイマスクをした女性が小さく写る。地上の重力を無視するかのように軽快に飛び回って、鎮圧用のゴム弾をかわしていく姿が。
逢香はなぜか他人事のように報道を聞いていた。実感がわかない。体制に刃向かう謎の反逆者。奴隷を助け政府の犬を撃退する、カウンターハンター。
このわたしが? それを思うとちょっと可笑しい。思わず吹き出してしまう。逢香、優等生で通っていたのになあ……。学級委員を務め、剣道と体操の選手。
でも。
この不景気の世の中に、腐り切った体制に与し小さくなって生きるなんてうんざり。だからこの道を選んだ。
さあ、今日は気合入れていくわよ。わたしのスタジアム・デビューの日なんだから!
いままでわたしたちテロリストは、陰に隠れてこそこそ、それもばらばらに行動するしかなかった。それが今日結集するのだ。こんな大規模な、作戦とまで呼べるイベントは初めてだ。今日を勝利に飾って、明日のデートでカレに自慢するんだぃ。
逢香は大通りの歩道を歩き、ほんの数分で目的の場所へ辿り着いた。駅からも大きく見える、新都心スタジアム。スポーツ開催用のドーム型競技場だ。そこにはたくさんの人が行列を作っていた。逢香は最後尾に並んだ。
時計を確かめる。五時二十分、時間だ。入り口が開き瞬く間に客たちはドームの中へ入っていった。リング端末を機械にかざして素通りするだけなので、昔と違ってスムーズなのだ。しかし逢香は入り口で戸惑った。やむなく、整理係に聞く。
「バトルロイヤル、プレイヤー参加は?」
「え?」
整理係はいままで客との対応が無かったのであろう、暇そうに椅子であくびしていた。そのスタジアムのアルバイト青年は苦笑した。明らかに田舎のお上りさんを見る目で逢香に言う。
「とっくに締め切りです。というかそれじゃあお客さん、怪我しますよ。余っているのは……オーディエンスC席空いています、どうぞ」
わたし観客じゃないのに……。まあ、入りさえすれば後は変わらないけど。逢香真面目だから、闇討ちなんかじゃなく正々堂々やろうと思ったの。バトルロイヤル、めちゃくちゃな大乱闘にしてあげるんだから! 今日は特別な日。かわいそうな亜人剣闘士たちを助けて、非道な殺戮ショーを楽しむ堕落した人間たちに痛い目見てもらうわ。
バン! 突然、入り口の脇にある小さな扉が開いた。
作業員用の通行口だ。中から小さな人影が飛び出してきた。ぶざまにどさりと転がる。眼鏡が吹き飛んで落ち、割れはしなかったが乾いた音を立てた。奥から誰かに突き飛ばされたのだ。
それを見てむかっとした。ほんの十二歳くらいの子供じゃない! 外で遊ぶのに適したルーズな服を着た、百六十センチもない小柄な少年だ。
見れば相手は大人三人。二人はがっしりした警備員。しかし一人のスーツを着た中年おやじには逢香は見覚えがあった。この残虐なバトルロイヤルの主催者、日本中央バイオニクスの伊藤会長だ。わたしの倒すべきターゲットじゃない、あんな大物が子供一人に手をあげるなんて。伊藤は冷たく少年を一瞥すると、警備員と共に去っていった。
通用口の扉はバタりと閉じ、オートロックされた。
「俺を裏切った代償は大きいぞ、伊藤!」
少年は意味不明の言葉を吐いている(声がまるでソプラノで、全然脅しになってない)。
「坊や、大丈夫?」
わたしは駆け寄って、倒れている少年に手を差しのべた。
少年はまず、床に落ちた眼鏡を拾った。顔にかける。見ればそれは黒いサングラスだった。失礼だけど、吹き出した。せっかく可愛い目をしているのに、似合わない!
「怪我はない、どう僕?」
「俺は子供じゃないよ」
不機嫌な声で、少年はそう言った。
「あ、ごめんね」
内心、苦笑する。どこどうみても子供のくせに。似合わないのに髪の毛染めてつんつん逆立てて、イキがっちゃってまあ……背伸びしたい年ごろなのよね。わたしの手をとって立ち上がる。
「だけどありがとう、お嬢ちゃん」
その子の声は、皮肉に満ちていた。
だれがお嬢ちゃんだ。ううん、生意気なガキ! しかしその子は意外な事を言った。
「お礼に良いこと教えるよ。このスタジアム、今日は入っちゃ駄目だ。テロリストが狙っている。奴隷の悪鬼たちも反乱を起こすだろう。危険だからね」
「え!?」
わたしは驚いた。たしかに、その通りなのだ。そのテロリストの一人がソードダンサー、つまりわたしなんだけど。
マーダックというハンドルネームの情報屋が、今回の大規模なテロを企てた。マーダック……何者か知らないけど、きっと素敵な方だわ。
一流大に在学する二十そこそこの美青年、均整のとれた長身で文武両道の孤高の救世主。これはネットで流通していたかれのプロファイリングだけど、そんな漠然としたカリスマイメージしか、わたしは持っていない。そんなすごい敏腕アジテーターが、こんな子供に情報を知られるようなヘマをするかしら。
結局確かめる暇もなく、少年は歩み去ってしまった。
おっと、時間を食った。急いで入らなければ、総決起に間に合わないじゃない! わたしは入り口に戻り、カードを使ってゲートを抜けた。通路を小走りに、観客席へ向かう。
見下ろすと競技場には、リングの用意ができてある。リングと言っても古代ヨーロッパのコロシアムを模した、悪趣味な円形闘技場なのだが。奴隷剣闘士は死ぬまで出られない、石造りの牢獄。
ここでプロレスラーならぬ屈強なプロ剣闘士が、剣を帯び金属の鎧をまとって戦いに臨む。相手はろくな武器も許されない、殺されるばかりのかませ犬、遺伝子操作で生まれた亜人「鬼」たちだ。
K1でも楽しむように、気軽に見物する観客の気が知れない。こんな残酷な死のゲーム、今日を限りに止めさせる!
コロシアムのゲートが開いた。リングの檻の中に入っていくのは、ファンタジー映画に登場するような中世の鎧をまとった戦士。挑戦者、プレイヤー。
もう一方のゲートが開く………わたしは息を飲んだ。
なんてひどい仕打ち。未開の蛮族のような粗末な格好しか許されない、角の生えた亜人、哀れな悪鬼。身体は大きいけどやつれ、身につけているのは腰布だけ。武器はクギが打ちつけられた、棍棒を持っているだけだ。
よし、踏み込んでやる! わたしは息巻いた。ここで、場内アナウンスが流れた。壁一杯に作られた巨大モニターに、趣味の悪いタキシード(時代考証むちゃくちゃ)を着た実況担当が写る。
「本日は特別イベントを用意させていただいております。匿名で、とんでもない情報がリークされました……本日の挑戦者の中に、テロリストが混じっているのです! 人間の世界を揺るがす憎むべきテロリスト彼らと、悪鬼そして我らのヒーロー、英雄騎士グラディエーターとのスペシャルマッチです!」
観客は一斉にどよめき出した。ざわざわと騒ぐ。
わたしは血の気が引いた。どういうこと? これは、予期されたことなのかしら。
マーダックはこれを承知して、わたしたちカウンターハンターを召集した? どうしようもできずにいるうちに、挑戦者の二人の所に、がしゃんと檻が落とされた。その二人がどうやらテロリスト。
檻に他のグラディエーターと、悪鬼が近寄ってくる。このままでは二人はなぶり殺しにされてしまう……。
考えてる暇があれば行動! わたしはアイマスクを装着した。顔を隠すというより催涙弾を封じる装備だ。躊躇わずコロシアムの観客席を飛び降りる。たちまち、警報が鳴り響いた。ゲートが開く。中から警備員、いや、テロリストを取り締まる「ハンター」がわいてくる。十人、二十人? うわ! 五十以上いる。これはちょっと絶望かも……。軽率だった。捕まって刑務所送り? それとも精神病院での洗脳? 醜態だ。いやだよう。
「ネズミが現れました……テロリストです!」アナウンスは興奮ぎみに実況している。「かれらもまとめて始末しましょう!」
かれら、なんのこと? 見れば同じように、客席からコロシアムに乱入した人は五、六人いた。いずれもばらばらな場所からだ。遠くなのでよくわからないが、彼らもカウンターハンター? 会ったことないけど、同じ理想を抱く同志。なんとかやってみる!
そのときだ。突然、スタジアムの照明が落ちた。
真っ暗闇……写るのは巨大スクリーンの画面のみ。そのアナウンスが、変わっていた。ぼんやりと逆光に映し出されるすらりとした人影。わたしは知っていた。マーダック! 彼のハスキーな声が響く。
「ショーを見るだけなんて退屈だろう? ケイオスな今夜をもっと楽しむために、景品を用意した……。聞こえているか伊藤。今回の代償は受けて貰う。さあ、受け取れ! ファイア、ブレイクダウン!」
ぱっと照明が戻った。それもわたしには幾線もの眩いスポットライト。目に痛い。悪鬼と挑戦者の檻は外されていた。ハンターどもは戸惑って動けずにいた。
観衆は予期せぬ大イベントに盛り上がって、ぎゃあぎゃあ言っている。血の応酬を喜ぶなんて、どちらが悪鬼だかしれたものではない。
しかしその声が、口調が不意に変わった。猜疑的なざわざわ声。
上からなにか紙片が落ちてきていた。ひらひらと何枚も、何千枚も。灰色の長方形の紙片……あれっておさつじゃない!
頭上の換気口から風に乗って、コロシアム全体にばらまかれている。一万円札! 観客はそれに気づくと、落ち着きを失った。一人がコロシアムに飛び降りると後はあっけなかった。大多数の観客は、金を拾いにコロシアムに飛び降りた。何百人も。
コロシアムはもちろん大混乱になった!