銀英伝if……もしヴェスターラント事件がなかったら
帝国歴488年。銀河帝国は二つに分裂していた。
ブラウンシュヴァイク公を盟主とする古くからの門閥貴族の結集した、賊軍貴族連合。もうひとつは皇帝を擁する新興の侯爵にして帝国元帥の、ラインハルト=フォン=ローエングラム率いる帝国軍である。
内乱は、ラインハルト有利に進んでいた。しかし、この戦争に勝利するため、貴族連合の拠点ガイエスブルグ要塞を攻略するとなると、決め手を欠いていた。
同盟と呼ばれる叛徒たちの血を幾千万と吸い上げた、イゼルローン要塞の主砲と同等の威力を持つとされるガイエスブルグ。
この状況を打開するための情報は、参謀総長からもたらされた。オーベルシュタイン中将。
貴族連合の傘下にあった惑星ヴェスターラントで謀反発生。民衆は太守を斃し独立したのである。これを知ったブラウンシュヴァイクは激怒し、ヴェスターラントに核攻撃を加えて住民を皆殺しにしようとしていたのだ。
参謀総長オーベルシュタインは、元帥ラインハルトに進言した。
「いっそのこと血迷ったブラウンシュヴァイク公に、この残虐な計画を実行させるべきです」
「だがヴェスターラントには200万もの民衆がいるのだ。中には女子供もいよう。それを……」
「君主は。ときには、他の大勢のより多くの幸せのために。その一部の犠牲は見逃さなければならないものです」
「それは初歩的なマキャベリズムの論法だな」
「初歩、なればこそ。原則であり事実です」
「艦隊を急行させて、核攻撃の計画を阻止せよ。即刻だ。一秒でも早く。民衆を犠牲にするわけにはいかない」
「閣下! あなたにはお分かりのはずです。そんなことをすれば、この戦いがどうなるか。そしてそれが終わった後の世がどうなってしまうかも」
「オーベルシュタイン」二十一の元帥の氷藍色の瞳に、稲妻が走った。「貴官を反逆罪で拘束する。守るべき帝国臣民に対する重大な裏切り行為だ。辞令は……銃殺の辞令は今日中に出す。下がれ。自室にてそれまで謹慎せよ」
参謀総長は、身じろぎひとつしなかった。
冷たい……と、いうより常に一切の感情を見せることのないかれの作り物の眼。
だが、その硬質な仮面が。やがてふっと、ほころんだ。ほんの一瞬ではあるが、それは確かに笑みであった。
彼が笑みを見せることなど、誰も見たことがなかった。街の片隅で震えている、汚らしい捨て犬を拾って家で飼う、なんて行為にはおよそ縁が無いこの男にしたら、それは他人に見せる初めての親愛の情であったかもしれない。
義眼の参謀は、金髪碧眼の主君に深々とおじぎをした。軍の敬礼ではない、人間誰でも誰かに尊敬の念を表すときの、頭を下げるおじぎ。
そして今日の日没には処刑されてしまう、「ドライアイスの剣」として知られる嫌われ者は、そっけなくふりむいて。自分に死を宣告した主君の司令室を、静かに退出した。
待ち構えていた二人の兵士が、手荒に銃をその背中に突きつけ、歩けとうながした。
戦乱は長引いた。貴族連合の抵抗は根強く、その拠点ガイエスブルグの主砲は一千万もの兵士の血を啜った。
それでも革命家、ローエングラム元帥は勝利した。虚しい勝利だった。戦乱に帝国は荒れ果て、民は疲弊し飢えていた。戦争は、国家のありとあらゆる富を使い尽くしてしまった。
政権を握ったのは、つかの間のことだった。ラインハルトはその地位を追われた。
生態プラント。それを満載した巨大な補給艦が、サルガッソ・スペースを進んでいた。銀河中心方向に向かうその船に、たった四人の乗組員しかいないというのは、異例のことであった。
これで。居住惑星を作ることが出来る。
キルヒアイス。赤毛で190センチという、長身の青年は満足げに微笑んだ。
「宇宙のすべてがあなたの敵となるとしても。わたしはあなたの味方です。ローエングラム公」
「わかっていた。だが、ほんとうにそんなことになるとはな」
「ですが、歴史は続いていきます。閣下のほんとうの功績は埋もれてしまうでしょうが、あなたはなさるべきことを果たされました。たとえ、後世のすべての人間が。ラインハルト=フォン=ローエングラムの名を暴君として知ることであれ」
「そんなことは俺は気にしない。だが同じ暴君としてもあのルドルフに比べて、卑屈でとるに足らない小人物としてみなされるのだけは、くやしいがな。いいのさ。俺は宇宙を手に入れると誓ったし、ほんとうにそれを果たせるのだから。宇宙は、人間が住むには広すぎるな。俺たちが生きる場所はどこにでもあるぞ、キルヒアイス。俺と、フロイライン……ヒルダ」
「そしてわたしとアンネローゼ様が」
「姉上ときみは、もう昔とは違うのだぞ」
「わかりました。ラインハルト。わたしはあなたの兄なんですからね。妻とわたしは、大勢の子を作るでしょう。わたしの生きる世界が、いずれ。わたしたち夫婦と、あなたがた夫婦の子孫でいっぱいになるかと思うと、わくわくしますね」
「俺もだ。なんで人間は、ちっぽけな世界の中から抜け出せないで。何百年も何千年も同じ同胞同士で殺し合ってきたのだろうな。俺は海の量ほども、人間の血を流させた。自分もその一滴にすぎない存在のはずなのに」
「以前のあなたの言葉とは思えませんね、ラインハルト。あのヤン・ウェンリーならその疑問に答えてくれそうですが」
「常に最大の敵だったな。彼とは、一度でも直に会いたかった。キルヒアイス、おまえと同じくらいの親友になれたかもしれない。だが、彼には同盟の名誉元首を努めてもらわねばならないし……」
「嫌がっていましたね。そんな責任を負わないで、引退して歴史家になりたいって。でも、彼ならきっとわたしたちのいた帝国。皇帝のいなくなったいまのあそこと、うまくやってくれますよ」
「あいつらも嫌がっていたな。国務尚書のロイエンタールと、軍務尚書のミッターマイヤー」
「いいえ、満足していましたよ。他のみんなもね。ただ、わたしたちについていけないことだけは、悔しがっていました」
「しかたないだろう? 俺たちは全宇宙で一番の罪悪人で、民衆は許してくれるはずはない。もう新しい居場所を見つけるしか、生きる場所がない。無責任だな。混乱した三つの国を後にして」
「ある意味、祝福です。戦争は終わりました。少なくとも、いましばらくは」
「ある意味、人間の宇宙は一つになったな。地球教を追放したあの黒ギツネにしても、あれはあれで有能だからな。あの商人の国は、みんなを豊かにしてくれるはずだ。同盟の連中は自由な文化の側面を。俺たちのいた過去の帝国は、実際的な生活の部分を」
「いずれ。わたしたちの子孫の営むそれと。共存してくれることを祈ります。なにに乾杯します?」
「宇宙一の卑怯者で、俺の一番の恩人の義眼のあいつに」
おわり