それはいつかの時代……解放戦争から三十以上経つが、『自由自治権都市同盟共和国』は恐ろしい災厄に見舞われていた。
戦禍なくとも天災は襲う。ひとの世界は穏やかには過ごせないものか。
伝染する恐ろしい疫病はその国を襲っていた。大勢が感染し、発病しては湿疹を生じ、高熱に見舞われる。犠牲になるのは、体力のない老人や子供が大半だ。
この事態に都市太守から極めて迅速な命で非常事態宣言が通達され、感染予防の免疫注射が無料で行われていた。
病人は都市風下の南に隔離されたが、大勢の医師と看護師が志願し、患者の治療に当たっていた。
共和国政府の処置で、なんとか病人たちが暖を取る毛布と、燃料のマキ、それに最低限の食事だけは配給されたが。
しかしその看護は志願した病人の家族が大半だ。そのみんなは、自らも感染し死ぬ危険を受け入れている。ただ死を看取るためだけに。
そんな首都でいちばん大きい病院の一室に、中年の医師とやっと十二歳ほどになる患者の女の子はいた。闇が覆う中、暖炉の明かりがせめぎ合っている。夜もふけてきた。悲しげに医師は思う。
女の子は自ら志願し、疫病患者の介護に当たっていたのだ。免疫注射をその十日前に済ませていたから、発病する危険はまずないはずだった。しかし、一週間後に倒れた。
医師はできうるだけの医療を行ってきたが、この子にはもう無理なのだ。疫病とは違う原因不明の衰弱症で、この極寒の冬高熱と発作を繰り返している。食べ物もろくに受け付けない。
それでも、病院に掛かれるだけ幸運かもしれない。金の無い病人は、隔離施設でなんら成す術なく苦痛とともに死を待つだけだ。
それに比べこの少女の父は、共和国の退役将官なのだ。病院のなんと二階に暖炉のある特製の病室に入れた。
暖炉に煌々と炎を燃え盛らせたまま、病室のすべての窓を開けしばし換気する。密閉された室内での雑菌の繁殖を防ぐためだ。余計な感染症にするわけにはいかないから。
少女に問う。
「寒いかい?」
「いいえ、大丈夫です。ねえ、先生」病床の少女は、ぽつりといった。「あなた生まれ変わりを信じる? 生まれ変われるものなら、わたし鳥になりたい」
「空を飛べるから?」
医師は優しげに答えた。
少女はつぶやく。
「世界を旅できるから。すべてを見降ろして」
痛ましく思う。これも悲しき籠の鳥たちの定めか。医師はせめてもの誠意で語った。
「人間は、翼がなくても空を飛べるんだよ」
「どうして? どうやって。わたしは飛べないわ」
「飛べないように思うのは、きみが籠の中に入っているからさ。その扉を開く鍵さえ手に入れれば、自由に大空へ飛びたてるよ」
返事はなかった。切なげな視線に、医師は続けた。
「鍵がわからないのかい、なんのことかって、どんなものかって、どこにあるかって? いまはわからないかも知れないね」医師は力強く、断言した。「鍵、それこそは失われた希望。探しに旅立とう、勇気という翼広げて。希望という鍵を」
「希望……それがあれば、なにが見つかるの?」
「夢という空、愛という宝。友という絆。きみが翼を広げたなら、きっとすべては見つかるはずさ」
「鳥になれるのね、人間って。素敵な夢だわ」
「そうだね、だからそれを忘れないで。空は遥か彼方へ続いているのだから」
「空……この宇宙ってどのくらい広いのかしら」
「無限さ。空だって占星術的に見れば、広大な宇宙に浮かぶ砂粒みたいな大地の表面を覆う、ほんの薄い膜に過ぎないんだよ」
「その果てには? きっと虚無が続いているだけ。世界は果てしない闇に覆われているのかも」
医師の胸に、ずきりとした痛みが走った。せめて誠実にいう。
「いや、神の御心とはもっと懐深いはずだよ。世界は光に満ちている。夜の闇の中でも、大地の反対側は太陽が燦然と照らしている」
「わたしは神様信じられない……」
「信じる必要はないさ」医師はつとめて穏やかに語った。「神はね、いつでも人と、すべての命とともにあるのだから」
「わたしは神も世界も永遠もいらないの! わたしを愛してくれるひとがいてくれさえすれば」
少女は切なげな声を張り上げるや、ここで激しい咳の発作に見舞われた。医師は慌てて、二階のこの病室の窓を閉めた。鍵を掛ける。霧吹きで加湿する。
「きみのご両親は、きみを案じていてくれているよ」
「そう、お母さん……」
うわ言のようにつぶやく少女に、医師は病室の扉を開け、待っていた母親を迎え入れた。解熱剤の効果が切れてきたのだ。変わって、医師は廊下へ出て椅子に座り待機する。
解熱剤は、病気を治してはくれない。単に身体自ら発する熱で、患者が衰弱するのを防ぐだけなのだ。熱が下がっている間は、病原菌は倒せない。体力を回復するか、病魔が圧倒するかの勝負なのだ。その処置も、もはや一時患者の意識を戻すために過ぎない。
医師……言葉を言い繕ってもしかたない、助かる見込みのない戦傷者を安楽死させる死の使いを務めてきた報いか。
医師はずっと昔、少年時代神を信仰していたのだ。といっても神官ですらなく一介の入信者。数十年前にもなる解放戦争時の記憶がいまも生々しい。
医師はそのとき、単なる衛生兵だった。戦場の掟。負傷の軽い、戦線復帰可能なものから処置をする。重傷者はその後だ。しかも助かる見込みのない、致命傷を負っても死にきれないものは、毒殺なり銃殺なりして始末する。
狂おしいまでに苦しい思い出。ぬぐい去れない、過去。
ほどなく、母親が医師を呼んだ。
少女は再び高熱を出し、昏睡状態に陥った。早くも今夜が峠か……もはや目覚めないだろう。奇跡は起こらなかったか。
医師の見守る中、少女は穏やかに逝った。母親は、少女が最期の吐息を吐いて半刻まで、じっとその手を握っていた。
思いもかけず、涙を浮かべながらも晴れやかに、母親は言った。
「先生はよくしてくれました。この子は、果てしない夢を見ながら眠ることができた。ありがとうございます」
医師はいたたまれなかった。さみしげにいう。
「私は……過去、神を信仰していました。医師の道を選んだのもその教えからです」
医師は沈痛に思った。すべての運命は神が握っているという。ならば罪なき幼い子の命を奪う、それが神の御心だとでも? そうなのだ。宗教はそれすら『原罪』とかの理屈で封じてしまう……
だから言い捨てた。
「だが……神なんていやしない。天国なんてないのです」
「いえ」母親は穏やかに否定した。「あなたは違うと知っているはず。天国も地獄もこの地上に。神も悪魔もひとのこころの中に。こころの持ち方ひとつで、世界は楽園になるわ」
反駁する……だったら太陽はこうも神々しいのに、なぜ晴天の空はこんなに悲しいのだろう。光に満ち溢れているのに、なぜなんだろう。いや、普段は爽快だ。弱気になっているだけか。
「失言でした、申し訳ありません」
「あの子は……わたしと夫の実の娘ではないのです。養女で、しかもわたしに夫を引き合わせてくれてくれたのがあの子……不思議な子だわ、おとぎ話に聞く妖精のような。妖精だとしたら、いまはもう人々の幸せのために旅立っている。だから、いいのです」
医師に向かい、母親は厳粛な礼をした。医師も深くお辞儀すると、病室を離れ病院の自室へ入った。今夜の仕事は終わりだ。
妖精、羽ばたいて 後
戦禍なくとも天災は襲う。ひとの世界は穏やかには過ごせないものか。
伝染する恐ろしい疫病はその国を襲っていた。大勢が感染し、発病しては湿疹を生じ、高熱に見舞われる。犠牲になるのは、体力のない老人や子供が大半だ。
この事態に都市太守から極めて迅速な命で非常事態宣言が通達され、感染予防の免疫注射が無料で行われていた。
病人は都市風下の南に隔離されたが、大勢の医師と看護師が志願し、患者の治療に当たっていた。
共和国政府の処置で、なんとか病人たちが暖を取る毛布と、燃料のマキ、それに最低限の食事だけは配給されたが。
しかしその看護は志願した病人の家族が大半だ。そのみんなは、自らも感染し死ぬ危険を受け入れている。ただ死を看取るためだけに。
そんな首都でいちばん大きい病院の一室に、中年の医師とやっと十二歳ほどになる患者の女の子はいた。闇が覆う中、暖炉の明かりがせめぎ合っている。夜もふけてきた。悲しげに医師は思う。
女の子は自ら志願し、疫病患者の介護に当たっていたのだ。免疫注射をその十日前に済ませていたから、発病する危険はまずないはずだった。しかし、一週間後に倒れた。
医師はできうるだけの医療を行ってきたが、この子にはもう無理なのだ。疫病とは違う原因不明の衰弱症で、この極寒の冬高熱と発作を繰り返している。食べ物もろくに受け付けない。
それでも、病院に掛かれるだけ幸運かもしれない。金の無い病人は、隔離施設でなんら成す術なく苦痛とともに死を待つだけだ。
それに比べこの少女の父は、共和国の退役将官なのだ。病院のなんと二階に暖炉のある特製の病室に入れた。
暖炉に煌々と炎を燃え盛らせたまま、病室のすべての窓を開けしばし換気する。密閉された室内での雑菌の繁殖を防ぐためだ。余計な感染症にするわけにはいかないから。
少女に問う。
「寒いかい?」
「いいえ、大丈夫です。ねえ、先生」病床の少女は、ぽつりといった。「あなた生まれ変わりを信じる? 生まれ変われるものなら、わたし鳥になりたい」
「空を飛べるから?」
医師は優しげに答えた。
少女はつぶやく。
「世界を旅できるから。すべてを見降ろして」
痛ましく思う。これも悲しき籠の鳥たちの定めか。医師はせめてもの誠意で語った。
「人間は、翼がなくても空を飛べるんだよ」
「どうして? どうやって。わたしは飛べないわ」
「飛べないように思うのは、きみが籠の中に入っているからさ。その扉を開く鍵さえ手に入れれば、自由に大空へ飛びたてるよ」
返事はなかった。切なげな視線に、医師は続けた。
「鍵がわからないのかい、なんのことかって、どんなものかって、どこにあるかって? いまはわからないかも知れないね」医師は力強く、断言した。「鍵、それこそは失われた希望。探しに旅立とう、勇気という翼広げて。希望という鍵を」
「希望……それがあれば、なにが見つかるの?」
「夢という空、愛という宝。友という絆。きみが翼を広げたなら、きっとすべては見つかるはずさ」
「鳥になれるのね、人間って。素敵な夢だわ」
「そうだね、だからそれを忘れないで。空は遥か彼方へ続いているのだから」
「空……この宇宙ってどのくらい広いのかしら」
「無限さ。空だって占星術的に見れば、広大な宇宙に浮かぶ砂粒みたいな大地の表面を覆う、ほんの薄い膜に過ぎないんだよ」
「その果てには? きっと虚無が続いているだけ。世界は果てしない闇に覆われているのかも」
医師の胸に、ずきりとした痛みが走った。せめて誠実にいう。
「いや、神の御心とはもっと懐深いはずだよ。世界は光に満ちている。夜の闇の中でも、大地の反対側は太陽が燦然と照らしている」
「わたしは神様信じられない……」
「信じる必要はないさ」医師はつとめて穏やかに語った。「神はね、いつでも人と、すべての命とともにあるのだから」
「わたしは神も世界も永遠もいらないの! わたしを愛してくれるひとがいてくれさえすれば」
少女は切なげな声を張り上げるや、ここで激しい咳の発作に見舞われた。医師は慌てて、二階のこの病室の窓を閉めた。鍵を掛ける。霧吹きで加湿する。
「きみのご両親は、きみを案じていてくれているよ」
「そう、お母さん……」
うわ言のようにつぶやく少女に、医師は病室の扉を開け、待っていた母親を迎え入れた。解熱剤の効果が切れてきたのだ。変わって、医師は廊下へ出て椅子に座り待機する。
解熱剤は、病気を治してはくれない。単に身体自ら発する熱で、患者が衰弱するのを防ぐだけなのだ。熱が下がっている間は、病原菌は倒せない。体力を回復するか、病魔が圧倒するかの勝負なのだ。その処置も、もはや一時患者の意識を戻すために過ぎない。
医師……言葉を言い繕ってもしかたない、助かる見込みのない戦傷者を安楽死させる死の使いを務めてきた報いか。
医師はずっと昔、少年時代神を信仰していたのだ。といっても神官ですらなく一介の入信者。数十年前にもなる解放戦争時の記憶がいまも生々しい。
医師はそのとき、単なる衛生兵だった。戦場の掟。負傷の軽い、戦線復帰可能なものから処置をする。重傷者はその後だ。しかも助かる見込みのない、致命傷を負っても死にきれないものは、毒殺なり銃殺なりして始末する。
狂おしいまでに苦しい思い出。ぬぐい去れない、過去。
ほどなく、母親が医師を呼んだ。
少女は再び高熱を出し、昏睡状態に陥った。早くも今夜が峠か……もはや目覚めないだろう。奇跡は起こらなかったか。
医師の見守る中、少女は穏やかに逝った。母親は、少女が最期の吐息を吐いて半刻まで、じっとその手を握っていた。
思いもかけず、涙を浮かべながらも晴れやかに、母親は言った。
「先生はよくしてくれました。この子は、果てしない夢を見ながら眠ることができた。ありがとうございます」
医師はいたたまれなかった。さみしげにいう。
「私は……過去、神を信仰していました。医師の道を選んだのもその教えからです」
医師は沈痛に思った。すべての運命は神が握っているという。ならば罪なき幼い子の命を奪う、それが神の御心だとでも? そうなのだ。宗教はそれすら『原罪』とかの理屈で封じてしまう……
だから言い捨てた。
「だが……神なんていやしない。天国なんてないのです」
「いえ」母親は穏やかに否定した。「あなたは違うと知っているはず。天国も地獄もこの地上に。神も悪魔もひとのこころの中に。こころの持ち方ひとつで、世界は楽園になるわ」
反駁する……だったら太陽はこうも神々しいのに、なぜ晴天の空はこんなに悲しいのだろう。光に満ち溢れているのに、なぜなんだろう。いや、普段は爽快だ。弱気になっているだけか。
「失言でした、申し訳ありません」
「あの子は……わたしと夫の実の娘ではないのです。養女で、しかもわたしに夫を引き合わせてくれてくれたのがあの子……不思議な子だわ、おとぎ話に聞く妖精のような。妖精だとしたら、いまはもう人々の幸せのために旅立っている。だから、いいのです」
医師に向かい、母親は厳粛な礼をした。医師も深くお辞儀すると、病室を離れ病院の自室へ入った。今夜の仕事は終わりだ。
妖精、羽ばたいて 後