首尾良く無事に『取り引き』を済ませ、翌日の夕刻、水夫は技師との待ち合わせ場所にいた。共和国港湾の波止場。技師はやってきた……姿を見て驚く。豪奢な高級官僚の制服を纏っている。おまけに部下らしき役人を数人連れていた。
技師は軽く言った。
「ああ、雇用の件だけど。あれは無しだよ。僕は賞金首ではなくなったんでね」
「どういうことだ?」
「造船局から手配された。あんな設計図作れるの、僕しかいないってんで取っ捕まったんだ。そしたら、あの頑迷な太守が僕の借金、肩代わりしてくれるとさ、どういう風の吹きまわしだか」
「では、おれの報酬のロザリオは……」
「え? ああ、きみにあげるよ。安いものさ、共和国政府お抱えの主任造船技師からすれば」
「返す。おれは贈収賄とただ働きはしない主義でね」
「じゃあ、新型帆船が完成したら、改めて雇われてくれるかい? 誇り高い王国艦隊の水兵さん」
「なぜそれを?」
「太守が話していた。共和国も王国も関係ないさ、もう同胞が戦うことなんかないんだ。いずれ一緒に行こう、どこへだって。冒険の計画があるんだ、この世界は広いよ。それとも狭いのかな、どこへ行っても人間が暮らしているから」
海で働いていたというのに、ちっぽけな世界観しか持っていなかった自分に改めて気付く。この海原の彼方へ……
水夫は波止場から、打ちよせる波の海と陽の落ちていく水平線を見回した。波のせせらぎが心臓の鼓動のように感じる。つぶやく。
「世界……」
「では、約束だ。そのロザリオは手付金だな。僕は忙しいので、これで。また会おう」
それから水夫は、『王女』に関する情報を探した。海の荒くれの集う酒場で、それらしき『彼女』についての手掛かりは、いとも簡単につかめた。ずいぶんとむかしのことになるが、暴漢に乱暴されそうになった少女が、その男を殺めたという話があるのだ。その手口は、王家の女性なら誰しも嗜んでいる護身術ではないか?
年齢も符合した。彼女は大変な美貌の持ち主で言動も涵養にして優雅、さまざまな男からの求婚の申し込みもたくさんあったとか。それがつい昨年、共和国の退役将官と結婚したそうだ。
焼けるようなラム酒をすすりながら、水夫は敵であった共和国都市の水兵たちと、話こんだ。水夫は敵視も差別もされなかった。
穏やかに、夏の日も沈むころだった。決定的な証拠が勝手に飛び込んだ。水夫に話しかけてきた女の子がいるのだ。というか、なんで幼い子がこんな酒場に?
女の子は、おずおずといった。
「おじさん、そのロザリオ……」
「どうかしたかい、お嬢ちゃん」
「わたし、元の持ち主を知っているの」
決め手だった。その持ち主というのがこの女の子の親で、しかもうわさの美貌の女性。年齢も符合する。退役将官が父だから、こんな女の子が酒場にいられる。酔漢水夫の多くは将官の部下なのだ。
すぐにわかったが、この女の子は『導きの妖精』とのあだ名でこの街では有名らしい。水夫は女の子に街を案内された。
古びてはいるが丁寧に手入れのとどいた立派なたたずまいの屋敷へ案内され、水夫は確信した。彼女こそはまさに王女だ。
神の名に賭けても――水夫は息を呑んだ――これほど愛らしい女性は見たことが無い。自分と同い年……解放戦争からと同じ年齢のはず、とするとそう歳は若くないが、気品にあふれた美貌は可憐だ。
皮肉なものだな、滅んだ王国の王女が、まさか共和国の退役将官と結ばれていたとは。それに十歳ほどになる女の子さえいるとなると、平穏な人生ではなかったろう。だから。
水夫は、彼女にロザリオを差し出した。
「どうぞ、これは貴女のものですから。あ、いえ贈り物です。お代は頂きません」
「わざわざ持ってきていただいて? いいえ、確かに大切なものですが、もうわたしには必要ないものです」
「しかし……貴女が身につけるに、ふさわしいものですよ」
「なぜかしら。このロザリオは、あなたが持っていた方が良い気がして。きっと幸せを運んでくれる」
母が持っていたロザリオ……水夫はぎゅっと握りしめていた。
夫の退役将官も出てきて、挨拶した。それも、軍の敬礼を。水夫は反射的に、敬礼を返してしまった。王国海軍の。
「その体躯に身のこなし、きみは水兵だな」退役将官は穏やかに尋ねた。「それも共和国ではなく王国海軍。違うかな?」
「戦士に二言はない。その通りです。おれが憎いですか」
「互いに、互いの世界を守るために戦ったのだ。個人的に恨み憎む理由などない。こうして出会えたのもなにかの縁。晩餐を一緒にどうです? 妻の手料理でよろしければ」
「お断りするのも無礼でしょう、喜んで頂きます」
こうして水夫は、『王女』の屋敷へ招かれた。
晩餐の具材は、思いのほか質素だった。それでもふんだんな料理が次々と並んだ。口をつけると、味付けは格別なものだった。船の糧食ばかり食べていた水夫には、舌がとろけそうだ。この味付けは、母から教わったと彼女は話した。母の味……
内心の燻る炎は、鎮まっていた。水夫は『王女』家族とにこやかに団欒し談笑した。身の上話を真剣に、一部隠して。
彼女は聞いてきた。
「そう、あなた戦災孤児でいらしたの。奇遇なものね、わたしは片親で、そのお母さんも義理の育ての母だった。わたしは生みの親を知らない」
疑惑に駆られる……彼女は、自分が『王女』だと知っているのだろうか?
「ひとつ聞かせてください」水夫は尋ねた。「貴女の……その義理の母は貴女を愛されていたのですか?」
女は……王女は少しさみしげに、しかし嬉しげに答えた。
「お母さんほどわたしを愛してくれたひとはいないわ。いまの夫に逢うまでは」
それで十分だった。この幸せは壊せない。復讐、王国の再興……それがなんだというのだ。彼女には世界がある。……だから。
自分も自分の世界を見つけなくては。彼女だってつらい過去を抱え、彼女なりの世界を愛を見つけたのだから。壊せるはずもない、自分の実の母の愛したこの王女がようやくつかんだ安らぎを。
晩餐は終わった。将官は泊まっていかないか、と申し出てくれたが、それを丁重に断り。水夫は不思議な満足感に囚われ、軽く挨拶すると、彼女たちから別れ。自らの道を歩き始めた。
技師に会いに行こう。首都を離れよう、いや、旧王国の外へ。道を、世界を探すのだ。
数奇な運命を抱え、ひとはみんな生きているのだ。いのちの奇跡というのだろうか。
さよなら、幻の王女殿下。さよなら、導きの妖精。
どうかつつがなく、姉さん。
妖精舞う収穫祭 前
技師は軽く言った。
「ああ、雇用の件だけど。あれは無しだよ。僕は賞金首ではなくなったんでね」
「どういうことだ?」
「造船局から手配された。あんな設計図作れるの、僕しかいないってんで取っ捕まったんだ。そしたら、あの頑迷な太守が僕の借金、肩代わりしてくれるとさ、どういう風の吹きまわしだか」
「では、おれの報酬のロザリオは……」
「え? ああ、きみにあげるよ。安いものさ、共和国政府お抱えの主任造船技師からすれば」
「返す。おれは贈収賄とただ働きはしない主義でね」
「じゃあ、新型帆船が完成したら、改めて雇われてくれるかい? 誇り高い王国艦隊の水兵さん」
「なぜそれを?」
「太守が話していた。共和国も王国も関係ないさ、もう同胞が戦うことなんかないんだ。いずれ一緒に行こう、どこへだって。冒険の計画があるんだ、この世界は広いよ。それとも狭いのかな、どこへ行っても人間が暮らしているから」
海で働いていたというのに、ちっぽけな世界観しか持っていなかった自分に改めて気付く。この海原の彼方へ……
水夫は波止場から、打ちよせる波の海と陽の落ちていく水平線を見回した。波のせせらぎが心臓の鼓動のように感じる。つぶやく。
「世界……」
「では、約束だ。そのロザリオは手付金だな。僕は忙しいので、これで。また会おう」
それから水夫は、『王女』に関する情報を探した。海の荒くれの集う酒場で、それらしき『彼女』についての手掛かりは、いとも簡単につかめた。ずいぶんとむかしのことになるが、暴漢に乱暴されそうになった少女が、その男を殺めたという話があるのだ。その手口は、王家の女性なら誰しも嗜んでいる護身術ではないか?
年齢も符合した。彼女は大変な美貌の持ち主で言動も涵養にして優雅、さまざまな男からの求婚の申し込みもたくさんあったとか。それがつい昨年、共和国の退役将官と結婚したそうだ。
焼けるようなラム酒をすすりながら、水夫は敵であった共和国都市の水兵たちと、話こんだ。水夫は敵視も差別もされなかった。
穏やかに、夏の日も沈むころだった。決定的な証拠が勝手に飛び込んだ。水夫に話しかけてきた女の子がいるのだ。というか、なんで幼い子がこんな酒場に?
女の子は、おずおずといった。
「おじさん、そのロザリオ……」
「どうかしたかい、お嬢ちゃん」
「わたし、元の持ち主を知っているの」
決め手だった。その持ち主というのがこの女の子の親で、しかもうわさの美貌の女性。年齢も符合する。退役将官が父だから、こんな女の子が酒場にいられる。酔漢水夫の多くは将官の部下なのだ。
すぐにわかったが、この女の子は『導きの妖精』とのあだ名でこの街では有名らしい。水夫は女の子に街を案内された。
古びてはいるが丁寧に手入れのとどいた立派なたたずまいの屋敷へ案内され、水夫は確信した。彼女こそはまさに王女だ。
神の名に賭けても――水夫は息を呑んだ――これほど愛らしい女性は見たことが無い。自分と同い年……解放戦争からと同じ年齢のはず、とするとそう歳は若くないが、気品にあふれた美貌は可憐だ。
皮肉なものだな、滅んだ王国の王女が、まさか共和国の退役将官と結ばれていたとは。それに十歳ほどになる女の子さえいるとなると、平穏な人生ではなかったろう。だから。
水夫は、彼女にロザリオを差し出した。
「どうぞ、これは貴女のものですから。あ、いえ贈り物です。お代は頂きません」
「わざわざ持ってきていただいて? いいえ、確かに大切なものですが、もうわたしには必要ないものです」
「しかし……貴女が身につけるに、ふさわしいものですよ」
「なぜかしら。このロザリオは、あなたが持っていた方が良い気がして。きっと幸せを運んでくれる」
母が持っていたロザリオ……水夫はぎゅっと握りしめていた。
夫の退役将官も出てきて、挨拶した。それも、軍の敬礼を。水夫は反射的に、敬礼を返してしまった。王国海軍の。
「その体躯に身のこなし、きみは水兵だな」退役将官は穏やかに尋ねた。「それも共和国ではなく王国海軍。違うかな?」
「戦士に二言はない。その通りです。おれが憎いですか」
「互いに、互いの世界を守るために戦ったのだ。個人的に恨み憎む理由などない。こうして出会えたのもなにかの縁。晩餐を一緒にどうです? 妻の手料理でよろしければ」
「お断りするのも無礼でしょう、喜んで頂きます」
こうして水夫は、『王女』の屋敷へ招かれた。
晩餐の具材は、思いのほか質素だった。それでもふんだんな料理が次々と並んだ。口をつけると、味付けは格別なものだった。船の糧食ばかり食べていた水夫には、舌がとろけそうだ。この味付けは、母から教わったと彼女は話した。母の味……
内心の燻る炎は、鎮まっていた。水夫は『王女』家族とにこやかに団欒し談笑した。身の上話を真剣に、一部隠して。
彼女は聞いてきた。
「そう、あなた戦災孤児でいらしたの。奇遇なものね、わたしは片親で、そのお母さんも義理の育ての母だった。わたしは生みの親を知らない」
疑惑に駆られる……彼女は、自分が『王女』だと知っているのだろうか?
「ひとつ聞かせてください」水夫は尋ねた。「貴女の……その義理の母は貴女を愛されていたのですか?」
女は……王女は少しさみしげに、しかし嬉しげに答えた。
「お母さんほどわたしを愛してくれたひとはいないわ。いまの夫に逢うまでは」
それで十分だった。この幸せは壊せない。復讐、王国の再興……それがなんだというのだ。彼女には世界がある。……だから。
自分も自分の世界を見つけなくては。彼女だってつらい過去を抱え、彼女なりの世界を愛を見つけたのだから。壊せるはずもない、自分の実の母の愛したこの王女がようやくつかんだ安らぎを。
晩餐は終わった。将官は泊まっていかないか、と申し出てくれたが、それを丁重に断り。水夫は不思議な満足感に囚われ、軽く挨拶すると、彼女たちから別れ。自らの道を歩き始めた。
技師に会いに行こう。首都を離れよう、いや、旧王国の外へ。道を、世界を探すのだ。
数奇な運命を抱え、ひとはみんな生きているのだ。いのちの奇跡というのだろうか。
さよなら、幻の王女殿下。さよなら、導きの妖精。
どうかつつがなく、姉さん。
妖精舞う収穫祭 前